ザ・怪奇ブログ

怪奇小説・絵画・怪奇の世界!

水面の彼方に 22・23話

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            22  トンネルでの来客…


 いろは坂を下り、日光市街地へと入った博士らのワゴンは郊外にあるスーパーの
駐車場に停車した。軍服男の襲撃以降ここまで何の問題も無く峠を越えてきていた
が、もちろん油断は出来ない状況である事には変わりなく、広い駐車場の奥、出来
るだけ薄暗い場所にワゴンを停める。

 市街地とはいえ、周りは山に囲まれ周辺はかなり暗い。
博士はワゴンの中で地図を広げ、現在地を確認しながら話を続けた。

「地図によると、この先は例のコンビニから緑川町まで何もない。ここで必要な物
を買っといた方が良いんじゃないかと思ってね。最悪の場合、この車で野宿という
事も有り得るし…」
「そうね、良美ちゃんの手当てもちゃんとしないといけないし、大事な物買ってき
てもらわないといけないわ。」

 光の治療で応急処置的な事は済んでいたが、包帯や張り薬なども必要である。
それとともに、須永理事長の傷はほとんど癒えたとはいえ、かなりの出血をしてい
る…何か栄養のつくものを摂る必要がある。

 さっそく博士と秘書、それに涼子の三人で薄暗い駐車場を小走りでスーパーへと
向かい、博士と秘書は食品を、涼子は一人無言で薬局の店舗へと向かう。


「…早紀君、例の後遺症は大丈夫なのかい?」
「ああ、だいぶ自分でコントロール出来るようになったの。大丈夫。」

 そう言って博士の後ろからついて走る秘書は、まだ顔色は少し高揚したままであ
る。オルゴンの力による興奮作用はすぐに消える事はなく、数時間は火照りのよう
な状態が続くのだ。

 彼は秘書の顔を覗き込むようにして見つめると、オルゴン液を混ぜた光のファン
デーションで綺麗に化粧を施していて、彼女の顔からは化粧品独特の良い匂いがす
る。

「ん…君は化粧顔も綺麗だな。こんな可愛い顔で、追っ手の男も油断したかい?」

 秘書の顎に手を添え、博士は彼女の顔を少しだけ上に向けた。
形の良い小さな唇に、今日は淡いピンク系のグロスを塗っている。

 

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「……そうなの、お色気攻撃の後で急所に膝蹴り叩きこんじゃった…♪」
「それは……敵さんには悪夢だろうな…」

 頬を赤く染めた秘書は、でれでれの笑みを浮かべ博士の肩に顔を埋めた。


「…じゃあ、急いで大事な物を購入して戻ろう。」

 博士と秘書は食品コーナーへ小走りで急ぐ。時刻は二十時を過ぎていて、お客は
数えるほどしかいなかったが、博士は食品コーナーをつむじ風のように回り必要な
物を籠に入れる。

「…博士、血を作る食べ物っていうと、やっぱり肉系?」
「うーん、そうとも限らないんだ。」

 博士は惣菜コーナーであるパックを一つ手にした。
何かの肉野菜炒めを自分の籠に入れ、隣の秘書に説明する。

「単純に鉄分を食べれば血が作れる訳じゃない。吸収しやすくなる物と一緒に摂る
のが大事なんだよ。例えば、この豚肉とほうれん草なんか良いね。おまけに梅干も
一緒だと最高だ。」
「じゃあ、ビタミンCね!」

 そう言って秘書は近くの棚からぺットボトルを一つ手に戻ってきた。
赤い色をしたアセロラという実から作られる飲料水である。

「そうそう、ビタミンCだよ。何でもそうだけど、その効果を上げるために必要な
物を合わせる事が重要なんだ。それを合わせる事で吸収率が格段にアップするとい
うやつ。」
「ねえ、博士。もしかして今晩も野宿の可能性があるでしょ?私たちの夜食も買い
込んでおいた方がよくない?」
「その可能性もあるね。」

 秘書の提案に、博士も頷きワゴンの中でも食べられるような物をしこたま買い込
み、薬局に向かった涼子が戻るのをスーパーの入口で待つ事にした。

 


 博士ら三人が戻るのを待つ間、光と須永理事長、運転席の真理はしばらく無言で
スーパーの明かりを見つめているだけだった。

 三人だけになる機会は少ないのであるが、いざその機会が来ると言葉が出てこな
い。しゃべりたい事は沢山あるのに、それぞれに想いが強すぎて言葉が詰まってし
まうのである。

「…良美ちゃん、傷は痛まない?」
「ええ、痛みはたいしたことないわ。それより貧血気味で少し頭がふらつくの。」
「…そう。あの人たち、ちゃんと栄養のつくもの買ってくるかしら?」
「頼んでおいたチョコレートさえあれば私は良いけど。」

「あのさー」

 どうでもよい話を光と良美がしていた時、それまで運転席で外を見つめていた
真理が会話に割り込んできた。二人は急に真面目な顔で真理の方を振り向き、彼女
の次の言葉を待つ…。

「あのさ…今だから二人に言うけど…」
「…なぁに?」
「…なんですの?」

「この旅が無事に済んだらさ…」

 真理は運転席から身を乗り出し、後部座席の方へと移動してきて二人の間に無理
やり入り座る。光と良美の二人は、笑顔を真理に向けながらも彼女が何を言い出す
のかと身をこわばらせた。

 と、真理は両脇の年上二人の頭に腕を回し、自分の方に抱き寄せるようにしなが
ら静かに言った。

「…二人の事は私が面倒見るから、ずっと三人で一緒にやっていこうよ。離れて暮
らしたって、もう意味がないわ。」

 光と良美の二人は顔を見合わせ、そして真理の方を覗き見る。
ずいぶん年下の彼女は、化粧をしているせいもあるが今日はいつもよりも大人びた
表情をしていた。

「…私が傍にいれば、いつまた何が起きるか分からないのよ?あなたの人生を、私
のせいで壊したくないの。真理、あなたは外の世界でもっともっと大きな存在にな
れる人よ?世界に評価されるようなー」

 珍しく真剣な表情で語る光の言葉に、真理は首を横に振りながら笑った。

「離れていようが、傍にいようが何かのトラブルが起きるなら同じでしょ?なら、
私は二人と一緒がいいわ。あの大学から外に出られなくてもいいの、私の幸せは
あなたたちと一緒に生きていくこと。それが私の望みの全てよ。」
「………。」

 さらりと自分の気持ちを言ってのけた真理とは違い、二人の年上女性は言葉に
詰まり何も言う事は出来なかったが、落ち着いた笑みを見せる真理は答えを聞く事
もせずに運転席の方へと戻ってゆく。

「ま、二人とも旅が終わる頃までに考えといて?」
 
 そしてシートベルトを締め、再びエンジンをかける。前方のスーパーの入口から
博士らが戻って来るのが見えたからである。


 

 

 

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 日光市街地を抜け、例のコンビニを通過した博士らのワゴンは、何のトラブルも
無く県道六号線へと入った。この道路は緑川町へと向かう唯一つの道であり、そし
て、謎の襲撃者連中の本拠地かも知れない場所である。

 明かり一つない山道を登ってゆくこの県道は、敵が自分たちを襲撃するのには
最適だったが、軍服男の出現以降は何事も無く、後は峠を越え山の中にある緑川町
へと入るだけだった。

 

「…考えられるのは、敵はもうそれほど大勢ではないかも知れないってこと。大学
の森で、あの子…”助っ人”に全部倒された可能性もあるし…」

 聖パウロ芸術大学からの脱出のさい、森の中から聞こえてきた銃声の数はかなり
のものだった。そう、相手は統制の取れた軍隊なのである。何かの秘密に触れてし
まった自分たちを始末するのが敵の目的ならば、潜んでいるのがばれている大学に
主力を送り込むのが一番だ。ましてあの場所は、人里離れた僻地にある…自分たち
を始末するには最適の場所である。

 あの大学を抜け出せた時点で、この脱出行はほぼ成功していたのかも知れない。
あの謎の軍服男が一人で追いかけてきたのも、もう自分らを追いかけられる兵が
存在しないから、という事もある。

 

「…あるいは、最悪私たちを始末出来なかったとしても、大した問題でもないのか
も知れないわ。」
「それ、どういう事よ?」

 もう一つの可能性を説明する光に、涼子は眉を曇らせて言った。
ワゴンは暗い山道をどんどん登ってゆく。すれ違う車も、後ろからやって来る車も
これまでのところ一台も無い。

「良くは分からないけど、お風呂に現れた襲撃者の言葉を信じるなら…何かが起き
てるそうよ。それで多くの兵士は私たちに構っていられないんじゃないかしら?」

「…何かが起きてるって、一体何が起きてるっていうのよ?例の「人間の皮」事件
よりも奇妙な事件が起きてるわけ?」
「その皮の件なんだがね…さっきから気になってる事があるんだ。」

 涼子の言葉に反応した博士が二人の会話に入ってくる。
彼は日光の街を出た時からずっと、一人何かを思案していた。

 

「我々を追いかけてきた軍服男…あの男の顔は「皮だけの死体」と何か関係がある
んじゃないか?ほら、早紀君。事件の最初の日、茶封筒の依頼で行った禿げ頭の男
の家に十二人も暗殺者たちがやって来ていた事を憶えているかい?」
「ええ、あんな普通のおじさん相手に襲い掛かる人数じゃないですよね?」

 あの郊外にある大きな家に侵入してきた襲撃者たちは、およそ考えられないよう
武装をしてきていた。いきなり暴徒鎮圧用の手榴弾まで家の中に放り込み、偶然
居合わせた博士と秘書、主に秘書に全員倒されたのだが…一体何の理由であの家に
完全武装で襲いかかってきたのだろうか?あの禿げ頭の男と間違われ、博士らは襲
われたのだ。

「…ひょっとして、茶封筒に同封された禿げ頭の男は…さっき我々を追ってきた
軍服男と同じような連中だった…とは考えられないだろうか?」
「ええっ?だって博士、あのおじさん政治家だかなんだかの人でしょ?」
「ああ、環境庁緑化推進委員だ。」

「おまけに、ウィスキー愛好家連盟の役員さんでもありますわ。とても教養のある
方だったと記憶していますけど…」

 先ほど秘書らが買ってきた物を一人で食べながら、須永理事長が博士の言葉に答
えて言った。大量に出血した彼女のため、血を作るのに適した料理を買い込んでき
たのである。豚肉とほうれん草の炒め物、そして何故か秘書が滋養をつけるために
大量に買い込んだ餃子やら、にんにく臭の強い焼き鳥など、ワゴンの中は美味しそ
うな匂いで充満していた。

「…そんな地位も名誉もある人物が、さっきのような凶暴な人間と同じとは到底
考えられないわ。」

 確かに、その経歴を見ればもう一人の皮だけで見つかった女性も同じく社会的な
地位も、教養もある人物なのである。とても先ほどの軍服男のような、凶暴な男と
同じ人間とは思えない。あれだけのオルゴンパワーでの打撃に耐え、しかも涼子の
銃弾もものともしない身体、そして顔の皮が大きくずれても平気に車を運転すると
いうタフネスぶり…だがー

「だが、もしもこれらの人物が同じような連中だとすれば、あの家に大人数の武装
集団が突入してきた事には、つじつまが合うんじゃなかろうか?」
「あ、その焼き鳥、私にもちょうだい?」

 ワゴンの前方に大きなトンネルが見えてきた。
緑川町へと抜ける前に一つだけ存在するトンネル、これを抜けたところが深い山々
に囲まれたすり鉢状の盆地、目的の町である。トンネルに近ずき、道端に古い立て
看板が立っているのが見えた。

     ”町まであと八キロ、ようこそ!緑川町へ!”

 電気もろくについていない暗いトンネルへとワゴンは入っていく。
この山のトンネルを抜ければ、そこはもう目的地でもある緑川町である。窓の外
は暗闇ばかりの景色が流れてゆく…。

 

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「けど…それなら少し変じゃないかしら?さっきの軍服男は、私たちの敵である謎
武装集団の一味な訳でしょ?なぜ同じような連中を武装集団が襲わなくちゃなら
ないのよ?矛盾してるとー」
「…誰かいた…!?」

 いきなりトンネルの中で急ブレーキを踏んだ真理が叫んだ。
ワゴンの中の面々はそれぞれ転がったり、顎をソファーにぶつけたりと大騒ぎだっ
たが、五十メートルほど後ろにあるトンネルの入口の方向を皆で振り返る。

 

 


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「ちょっと真理!何がいたっていうのよ?」
「…人がいたの、髪の長い女の人…」

 トンネルの中間付近で停車したワゴンの中で、皆は真理の言う「髪の長い女」と
いう言葉に口を閉ざし固まる。それもその筈、こんな夜更けにトンネルを歩く髪の
長い女などそうそういるものではないからだ。ましてや、この先の緑川町へと向か
う者どころか、すれ違う車すら一台も無いのである…。

「人なんかいた?真っ暗でしたけど?」
「でも……それって…幽霊とかじゃないの…!?」

 トンネルの入口は、外の月明かりのためか半円状に光っていた。
目を凝らしてみると、確かに入口辺りに髪の長い女性とおぼしき人影が立っている
ように見える…。

「……いるな。良くは見えないが、誰か立ってる…。」
「ほらね?戻ってみようよ。」

 そう言うといきなり真理はワゴンを急加速でバックさせる。

「ちょっ…真理!お化けだったらどうすんのよ!?車停めなさいってば!トンネル
で、しかもこんな時間に髪の長い女って、どう考えてもお化けでしょうがー!?
私はホラー的なものは苦手なのよ…!」
「あんたの存在自体がホラー的でしょうが。」

 人々から魔女として恐れられる光が、幽霊的なものにひどく恐怖を示しているの
が可笑しいのか、涼子はからかうように隣で狼狽する光に言った。一人、大騒ぎで
反対するのは彼女だけであった。

「…絶体お化けだってば!」
「いや…違うわ、だって可愛い傘持ってたもん。」

 トンネルの入口付近までバックすると、真理は光に言ってワゴンを止める。
立ち止まっていた髪の長い女は、それを見て静かにこちらに向かって歩き始めた。
暗くて良くは見えないが、すでにワゴンの後ろ数メートルのところまでやってきて
いる…。

「…開けんなよ?パンチラ刑事!開けんなよ…!?」
「開けまーす。」

 開けたドアの外に姿を見せたのは、確かに髪の長い女性であった。
だが、光の言うような幽霊でもお化けでも無く、普通の可愛らしげな女性である。


「…こんな場所で、どうしました?」

 運転席から顔を出した真理は、ワゴンの外に立つ女性に声をかける。
幽霊でないと分かり安心した光は、急にリラックスして後部座席のシートに余裕の
ポーズを取りながら、外の髪の長い女性を観察した。

 年の頃は二十代前半だろうか?童顔で、麦わら帽子に長いスカート姿という可愛
いらしい格好をしていた。秋とはいえ昼間は気温も高かったが、陽も暮れトンネル
の中は水気を帯びひんやりとしていて、暗い山道を歩いてきた彼女は肌寒そうに身
を震わせている。

 

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「…あの、えっと…この先の緑川町に行こうと思ってるんですけど…。」
「緑川町!?ここからまだ十キロはありますよ!?歩いて行くんですか?」

 髪の長い女性は、目的地が十キロも先だと聞いて、驚きの表情を浮かべた。
どうやらこの女性は緑川町を目指し、日光市街地から徒歩でここまで歩いてきた
らしい。

「…まだそんなに距離があるんですか?二、三キロくらいだと思ってたのに…」

 町までの距離を聞いて、女性はあからさまに不安な表情を浮かべる。
戻るにしても日光市街地まで十キロはあり、ここはちょうど半分くらいの中間地点
で、緑川町へ向かうにはこの夜道をさらに十キロほど歩かねばならない。


「あの、私たちも緑川町に行くの。よかったら乗っていく?」

 運転手の真理が外の女性に言った。
彼女は驚いたような表情で真理を見て、それからワゴンの中の面々を見回す。

「……えっ、良いんですか?」
「もちろん!でしょ?光さん?」

 真理は後部座席の光に笑いながら言うが、光はあからさまに眉をひそめる。
そして運転席に身を乗り出し、真理の耳元にひそひそと囁く。

「ちょっと、真理…!私たち今ー」
「いいじゃないか、光さん。」

 光の囁きを遮ったのはしばらく黙って見ていた博士だった。
そしてその言葉に、一番嬉しそうな表情をしたのは何故か秘書だったのだが。

「どのみち緑川町まで行くんだ。それなら、我々と一緒なのが一番安全なんじゃな
いのかね?」
「そりゃあ…確かにそうだけど…。」

 少々困った顔をして頭を掻く光の言う事も、博士や真理にも理解出来ていた。
しかし、女一人で謎の武装集団が現れるかも知れない山道を行くよりは、一緒に
峠を越えた方が幾分かは安全だろう、と考えたのである。

 その反面、こんな敵の本拠地に近い場所で人を車に乗せるという事は、別の危険
も考慮に入れなくてはならない。もしもこの女性が敵の…追っ手の一人だったとし
たら?大変な事になる、ということだ。

 ほんの僅かな時間、ワゴンの車内に沈黙が流れる…。
車内の面々がこの先の緑川町を目指すのは、遊びや旅行で行く訳ではないからだ。
いたずらに旅のお供を増やす訳にはいかないのである。


「…しょうがないわね、よし、お嬢さん、乗って!」
「あの、ありがとう御座います。」

 麦わら帽子を被った髪の長い女性は、帽子を取るとワゴンへと乗り込む。
車内の面々は、旅の終盤にきて初めて知り合い以外を乗せた事に少々戸惑いつつも
、突然の可愛らしい来客を好奇の目で見つめる。

「可愛い…ほら、クマのアップリケ付いてる…」

 秘書が隣に行儀よく座った少女のような女性をちらちら見ながら、博士に向かっ
て囁くような小声で言った。彼女はかなり身長が低いようで、おそらく百五十セン
チあるかないかくらいである。見た目の服装も可愛らしいが、おかっぱ状の髪型も
さらに彼女の容姿の幼さを際立たせている。

「私は早紀。名前を聞いてもいいかな?」
「…えっと、智佳子です。」

 髪の長い女性を乗せ、ワゴンはトンネルの中へと向かい動きだす。
長いトンネルを走る間、彼女がなんとも緊張した面持ちでいるのを見て取った光は
、緊張をほぐそうと気さくに話かける。

「…えっと、緑川町へは何の用事で?旅行?」
「あっ…はい、旅行です。一人旅をしたいと思って…」

 助手席に座る光が後ろの彼女に振り向きながら質問した。
その時、他の面々には気がつかなかったのであるが、一瞬だがおかっぱ女性の奇妙
な動作を光は見逃さなかった。

「えっ…?」

 が、車内の面々は、ここにきて現れた可愛らしい珍客に気を取られていて、光
以外にその事に気が付く者はいなかった。


「ほう、実は我々も、旅の途中でね。この先の町は初めてで全然情報が無いんだ。
君はあの町に行った事があるかい?」

 博士の言葉を聞いて、おかっぱの女性はちょっとだけ考え込み、そしてこの先の
町について教えてくれた。

「私、少しだけの間、あの町に住んでいた事があるんです。子供の頃なんですけ
ど…」

 偶然にも彼女は緑川町に住んでいた事があるということである。
町についてこれという情報が無い博士らにとっては、なんとも幸運な出会いであっ
た。

「それは有難い!とりあえず、町に夜遅くでも泊まれる場所はあるかい?」

「…昔の事だから詳しくは知りませんけど…たぶん大きなホテルや宿は無いと思い
ます。ペンションも数が少ないし…。」
「それは困ったわね…暗い中探し回るのも危険だし。」


 と、月明かりに照らされたトンネルの出口が見えてきた。
情報によれば、緑川町は山に囲まれたすり鉢型をしているそうである。

「わあっー」

 

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 トンネルを抜けた瞬間、ワゴンの面々は窓の外を見て感嘆の声をもらす。
月明かりに照らされた緑川町が、眼下に広がっているのが見えたからである。
峠の山道は片側が崖になっており、その下にぽつぽつと緑川町の街明かりが見えて
いた。

 その街の中を二つの川が蛇行するように流れていて、想像していた以上に美しい
景観である。

「ようやく辿り着いたわね。」


 様々な人間が様々な出来事の末にようやく辿り着いた目的地…緑川町。
しかし、その美しい街の夜景を眺めていた面々の誰もが、これから起きる未曽有の
事態を想像できる者はいなかった…。

 

 

     

 

          23   朝までの出来事…


 トンネルを抜け、眼下に緑川町を見ながら走る博士らのワゴンは、ひときわ見晴
らしの良い場所に静かに車を止めた。ここにはかつて食堂があったと思われ、薄汚
れた看板に「お食事処」と書かれているのが僅かに見える。

 ほとんど廃屋と化している峠の食堂にワゴンを止め、朝を待つ事にしたのだ。
暗い夜によそ者が町の中をうろつくのは、何かと目立つことになるし、明るくなっ
てからの方が街を探索しやすいと考えたからである。


 食堂の裏にある草むらにワゴンを移動させ、道路から見えない位置に停めると、
博士らは肌寒い車の外に出た。時刻はそろそろ深夜の0時を過ぎようかというとこ
ろである。色々あったが、目的の緑川町まではもう目と鼻の先だ。

 改めて車の外に出て、眼下に広がるすり鉢状の緑川町をしばらく無言で眺めてい
た面々だったが、最初に声を発っしたのは秘書である。


「智佳子さん、ごめんね?今晩のうちに街まで送れなくて。」
「…いえ、そんなに急ぐ旅でもありませんから。」

 新たな客人ともいえる智佳子に気を使って話かける秘書は、すっかりこの娘が気
にいったようで、ここで一夜を明かそうと提案したのもこの秘書である。

「それに…久しぶりに戻る緑川町へ一人で行くのはすごく不安だったんです。だか
らこんなに大勢で戻れるのはむしろ感謝しているんです。」


 そう言って隣の秘書に笑顔を向ける智佳子は、心の中では別の想いを秘めながら
眼下の街明かりを見つめる。

 

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 数年ぶりの緑川町…あの忌まわしくも恐ろしい事件は今も智佳子の心の中にしっ
かり残っていた。もちろん、あれはもうこの世に存在することも無く、事件は過去
の出来事となっている。何者があの事件を蒸し返そうとしているのかは知らないが
、今の智佳子にとってはこの旅が数年前のような恐ろしい出来事に結びつく事には
ならないと考えていた。


             …これまでは。


 が、この人たちと出会った事によってその考えは浅はかだったのではないか?
と思い始めていたのである。

 それというのも、トンネルで出会った彼らからは緊張感のようなものがひしひし
と伝わってきていたからだ。ワゴンに乗り、智佳子は助手席の窓に銃弾を受けた跡
がある事に気がついたからである。それと車内に残る微かな血の匂いだ…これらは
尋常ではありえない…。

 もちろん、これが普通の生活を送っている女子であったなら、これらの奇妙な事
にはおそらく気がつかなかっただろう。智佳子だからこそ気が付いた彼らの押し殺
した緊張感である。


  ”…ここまで来る間に、この人たちに一体何があったのかしら…?”


 明るく振る舞う陽気な彼らが何の目的で緑川町へと向かうのか?
もしかしたら、自分が緑川町へと向かう目的と、何かの関係があるのかも知れない
と、智佳子は思ったのである。

 

 

 

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 完全に住む人も無く、廃屋と化した食堂の外を見て回る博士や光は、大きな窓ガ
ラスが割れているところを見つけた。玄関の入口は屋根の部分が落ちていて、入る
事は出来なかったので、別の入口を見つけようと探索していたのである。

 眼下の緑川町が一望できる食堂の、大きな窓ガラスが一枚割れていてそこから中
へと入れるようだ。

「ここから中に入れそうよ?」


 食堂の中は、外から見たよりもずっと綺麗で荒れてはいなかった。
中に入ったのは博士と共に光と真理の三人である。窓ガラスの外には、今も秘書や
須永理事長らが崖下の緑川町を見ながら談笑していた。少し離れたところには、
依然として繋がらない自分の上司に通話を試みる涼子がいる。

 少々ほこりがついたソファーに腰を下ろしながら、月明かりに照らされた食堂内
を見回して真理が言った。

「何だか、あの時の事を思い出すわ…。」
「あのスキー場のロッジね?真理。」

 

 無言で真理は頷き、照れくさそうに笑う。
数年前、結社の黒幕である蔵前氏の追っ手から真理を守るため、あるスキー場の
ロッジへと姿を隠した。そこでの出来事は彼女らにとって辛く悲しい出来事となっ
たのだが、今もこうして全員が無事にいるということは奇跡のようなものだ。

「もう過去の出来事なのに、いま思い出してもゾッとするの。」
「…でも、私たちは生きてるわ。そう、生きてる。」

 そう言っておどけて見せる光の顔を、真理はまじまじと無言で見つめる。
彼女が何を考えているのか光には良く分かっているだけに、バツが悪いのを誤魔化
すため急に話題を変えた。

 

「…それより、ちょっといいかしら?」
「ん?何かね?」

 光は博士の隣に立つと、窓の外で秘書や理事長と立ち話をして笑う智佳子という
女性を見つめながら囁くような声で言った。

「…あの子、何だか変なのよ。」
「ほう。」

 腕組をしながら博士は横目でちらりと光を見つめ、そして外の智佳子へと視線を
向ける。

「…気のせいかも知れないんだけど、あの子ワゴンに乗ってきてすぐに私の助手席
の窓を見たわ。さっき軍服男の銃弾で開いた小さな穴よ…どうしてそんなとこに目
がいったのかしら…」
「偶然じゃないの?」

 今度は真理がおどけたような表情で言うと、光は真剣な表情を崩さず言葉を続け
た。

「…それだけじゃないわ。あの子、私を見たのよ…見たっていうか…何だか覗かれ
たような…奇妙な感じがしたの。初対面の人間に、そんなふうに自分が見られたの
は初めてだわ…。」
「考えすぎじゃない?光さん。普通の子に見えるけど…。」

 それきり、光と真理は黙って外の智佳子という小さな女性を見つめていた。
それに比べて博士の方は、ほこりをかぶった食堂の中をうろつき回り、飾ってある
物をあちこち眺めている。一際珍しいのは貝状の化石で、アンモナイトと呼ばれる
ものだった。

「探偵さんはどう思う?あの子、何か秘密があると思う…?」
「そりゃあるさ。」

 貝の化石をじろじろ眺めまわしながら、博士はあっさりと言ってのけた。
光も真理も唖然としながら、ぼうず頭のおじさんを見つめる。

「そもそも、今晩ここに集まった者は全員、今度の事件に何らかの関わりがある筈
なんだ。君たちしかり、私ら探偵の二人に刑事の涼子君…全て偶然のようで、実は
偶然ではない。何らかの意図を持ってここまでやってきたんじゃないか?と、する
なら、ここに現れた彼女もその可能性が高い、と思えるんだよ。」

「…例えそうだったとしても、あの子ほんと普通の女の子にしか見えないけど。」
「そうね…でも、すごく良い子だと思うわ。」

 そう言うと光と真理はソファーから立ち上がり、笑みを浮かべながら外にいる
連中のところに戻っていった。


 


 相変わらず深夜の一時を過ぎても、誰一人眠りにつかない女子連中とは少し距離
を置き、廃屋の周りをうろついている博士は街が見える見晴らしの良い断崖の脇に
奇妙な物を見つけた。

「おや?これは…」

 それは小さな石碑のような物で、一見すると地蔵のようにも見える。
草むらに隠れるように立つ小さな石で出来た物の傍にしゃがみ込むと、博士はそれ
を自分の携帯で一枚写した。

 それはおそらく、この緑川町を一望できる峠に建てられた古い石碑であろう。
断崖はほぼ垂直に下まで続き、そこには大きな川が流れている。これだけの高台に
こんな物があるという事は”道祖神”のようなものだろうと博士は思った。

 その石で出来た物のシルエットに見覚えがあった博士は、それがこんな場所に
存在した事に驚きを抱くと共に、自分の考えていた事がもしかしたら間違いないの
ではと思った。それが事実であるとすれば、この一件は驚くほど奇妙で奇怪なもの
になるだろうと博士は思い、断崖から離れた。


「んっ!?」

 さらに博士は奇妙な物が道路の端に落ちているのを見つけ、首を傾げる。
それはこんな山奥の峠に落ちている物では到底ありえない代物だったからだ。

 

 

 

 

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 廃屋の影に隠れる位置に円形に陣取った光らは、先ほど秘書がスーパーで買い込
んでいた大量の夜食を囲み、即席の女子会を行っていた。朝までここで野宿すると
決めた一行だが、今晩この場所で朝まで眠れる者などいる筈も無い。

 もっぱら皆の興味は、新たにやってきた智佳子一人に集まった。
驚きだったのは、彼女の歳である。


「…信じられない!私よりも年上だったなんて…!十代だと思ってた…」

 涼子や真理、秘書の三人よりも智佳子という女性は年齢が上だったのだ。
驚きと共に羨ましがる面々に対して、当の智佳子はそう思われる事にはコンプレッ
クスがあるらしく、この話題はあまり興味が無さそうに食事を続けている。

 その様子を須永理事長は、頭の上からつま先まで舐めるようにじっと見つめて
いた。その智佳子の食事の仕方に、良美は気になるものを見つける。


「…つかぬ事を伺いますけど、智佳子さんあなたどこかで作法教わったりしてまし
た?」
「えっ?」

 行儀よく食事をしている智佳子の様子をじっくり観察していた理事長は、彼女の
作法が驚くほどきちんとしている事に気が付いたのである。

「良美ちゃん、あんた作法なんて知ってんの?」
「当たり前じゃない、光ちゃん。私これでも名家の令嬢なんですのよ?」

 
 今度は自分が名家の令嬢なのではないか?という話題に変わり盛り上がる彼らと
は裏腹に、智佳子は緊張で冷汗が背中を伝うのを感じた。


”…この人たち、すごく危険だわ。このまま一緒にいたら、きっと私の素性がバレ
てしまうかも知れない…陽気な雰囲気だけど、洞察力が鋭い。何だか変だわ…”


 南条家は日本有数の名家だが、代々表向きには知られてはいない。
そしてその性質上、世の中に数多存在する敵勢力や国外の連中に知られる訳には
いかないのである。もしもその存在が知られれば、密かに伝えてきた様々な秘密の
技術、技が奪われてしまうかもしれない…。

「…あなた、もしかしてどこかの名家のご令嬢ですの?」


 須永理事長が緊張の面持ちでいる智佳子に質問した時、そこいらを散歩していた
博士が戻ってきた。その黒い防寒着に両手を入れたまま、何か半笑いしながら円形
に飯を囲む面々のところへと。


「博士、何かありました?」
「ああ、早紀君驚きだよ!こんなとこに、こんな物が落ちてた。」

 そう言ってポケットから取り出したのは、何か黒い布状の物だった。
それを両手で伸ばして見せる。

「あっ!それー」 
「ちょ……私のパンツじゃない…!?」

 

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 それは中禅寺湖の湖畔で、軍服男に罠をかけるためにしかけた光の下着だった。
秘書や真理、涼子はそれを見て腹を抱えて大笑いしている。

「すげー伸びる!ほら、あやとり出来るぞ?」
「……広げんなっつーの!」

 博士から自分のお気に入りの黒パンを取り戻した光は、それを見て奇妙なことに
気が付く。


「……えっ?ちょっと待って…」
「光さん、どした?」


(…これは確かに、私があの湖畔で仕掛けたもの…でも、どうしてこんな場所に
落ちてたの?だって、これは確かあの男の足に絡まってー)


 その瞬間、光の背後の暗闇から物凄い勢いで飛び出して来る人影があった。
その人影の手には恐ろしく大きなナイフが握られている。

「光さん、危ないっ!?」

 すっかり油断していた面々は、誰一人動ける者はなく、当の光も同様で、何かの
気配を感じ後ろを振り向くのが精一杯だった。

 目の前に、あの赤い目をした軍服男が迫っていたー


「…っ!?」

 

 

        

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 さしもの光も、一瞬だけ両目を激しくつむってしまった。
その瞬間、バシッ!という音と共に彼女の頭上を、軍服男の巨体が凄い勢いで飛ん
でいき、そのまま崖下の川へと真っ逆さまに落ちていったのである。


 光が振り向くと、すぐそばには智佳子がいた。
あの瞬間、動けたのはこの黒髪の少女のような女性一人だけだった。他の仲間は、
突然の出来事にその場を動けず、唖然としながらこちらを見ている。

 だが、一体彼女が何をしたのか?光はそれを見ていない…。

 

「あの…大丈夫ですか?」
「………えっ?ええ!大丈夫、何ともないわ。」

 ぼんやりとしながら目の前にいる彼女に礼を言う光に、智佳子は何ともバツの悪
そうな表情で小さく微笑んだ。

 


「…何よ、今のー」

 先ほど光に向かって襲いかかる軍服男へと素早く動いた智佳子の姿を偶然にも目
にしたのは涼子一人だった。ほんの一瞬の出来事だったが、光に迫る男の足に自分
の足先を出したように見え、つまずいた男の勢いを利用して智佳子という女性は、
流れるような身体さばきで巨体の男をひねるように回転させ、ぶん投げたように見
えたのである。

 そう、まるで合気道にあるような、相手の力と勢いを利用して投げる技である。
だが、涼子が警察の訓練で学んだどんな技とも違う奇妙なものだった。それにあの
動きの速さは人間業とはとても思えないものだったのである。

 …いや、そもそも一瞬の事だったので、あれが技だったのかどうかさえ疑わしい
…偶然、彼女が光を助けようと飛び込んだ拍子に、男の勢いがありすぎて落ちてい
っただけかも知れないのだ…。

「……そ、そうよ!そんな事あるはずない…もんね?」 

 

 博士は崖下へと落ちていった軍服男を見るため断崖の端へ向かう。
男は大きな岩の上に落下して、それから力無く急流に飲み込まれて流れていった。
さしものタフネスも、百メートルほど下の岩に激しく打ちつけられてはひとたまり
もないだろう。

「博士、あいつ今度こそ戻ってはこないよね?」
「ああ…たぶんね。それにしても…」

 質問に答えた博士は、横に立つ秘書と顔を見合わせると、二人して背後の智佳子
へ視線を向ける。

「あの智佳子さんって…何者かしら?」
「さて、ね…分からんな。」
「私はとっさに反応することは出来なかった…でも、あの子は素早く動けたわ。
それは…どういう事かしら?」

「簡単さ。どういうも何も、そういう事なんだろう。」

 腕組をしながら博士は、またも光らと話している智佳子をちらりと見つめ、それ
から隣の秘書に笑顔を向けて言った。

「…そうか、そうね!そういうことよね!」


 博士の言う何ともシンプルな回答に、秘書は納得したように呟く。
間一髪の危機ではあったが、智佳子の行動により光は無事だったのだ…今は、その
事実が全てであると秘書は思った。


(続く…)
 

水面の彼方に 21話

 

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            21  いろは坂の追走…  


 ほんの数秒にも満たない僅かの時間、トイレの個室は激しい銃撃による破壊と
閃光に包まれた。これでもかと撃ち続けた機関銃の弾が切れ、もうもうと立ち込め
る土煙の中、軍服姿の男は無言で機関銃のカートリッジを素早く交換する。

 弾を詰め替えた機関銃を構え、トイレの個室の煙が晴れるのを軍服姿の男は静か
に待つ。これだけ大量に弾を撃ち込んだのである、中に人がいたならどう間違って
も生きてはいない…。

 一瞬の嵐の後、再び薄暗いトイレの中は静寂に包まれる。
土煙が晴れてくると、軍服姿の男は銃を構え破壊された個室に足を踏み入れ中を
覗く。

 だが、それは男が予測していた状況ではなかった。

 個室には二人の女の姿は無く、ただ破壊されたコンクリやパイプが散乱している
だけで、人の痕跡はまったく見られなかった。さらに言えば、この個室で気を失っ
ていた筈の江田という男の姿も無い…。

 それが何を意味するのか?軍服姿の男は瞬時に理解した。

 僅かな時間とはいえ、二人がいない個室を撃ちまくっていた自分には数秒の遅れ
があるという事を。その遅れとは、女二人がこちらに反撃するための時間である…


 軍服姿の男が気がついた時にはもう遅かった。
いきなり自分の背後から、後頭部に強烈な打撃が入ったのである。その衝撃で軍服
姿の男は機関銃を床に落としてしまった。

 ふらつく男の横を素早く通り過ぎ、秘書は床に落ちた機関銃を蹴りつけトイレの
奥へと押しやる。

 間髪入れずに、今度は光がトイレの個室の仕切り板の上から軍服姿の男にダイブ
すると、自分の股間を男の顔面に押し付けるようにしながら勢いよくトイレの床に
後頭部から叩きつけた。いわゆる尻で顔面を押し潰したような形である。

 

 

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 光の全体重をお尻にかけ、パンツがずれるほど強烈に床に叩きつけたのだから、
軍服姿の男が立ち上がってくる事は無いだろう。男の後頭部はトイレのタイル張り
の床にめり込むように、半分ほど埋まってしまっていた。

 

「…間一髪ね!一秒遅れても助からなかったわ。」

 ヘーゼルグリーンの瞳を輝かせ、身震いしながら光は立ち上がり、自分のお尻を
ぱんぱんと叩いた。

「光さん、あの男も何とか引っぱりました。あそこに放置してたら、今ごろ蜂の巣
だったね。」

 言いながら秘書は、自分たちが蹴り壊した隣の個室に倒れている江田という男を
指さす。普段の彼女らでは、大の男を瞬時に引っぱる事など出来る筈もないが、
恐るべきはオルゴンの力である。

 軍服男が銃を構えた瞬間、二人は隣の個室の破壊した壁の中に飛び込んだ。
そして素早く彼の後ろに回り込み、不意打ちを食らわせたのである。


 光と秘書の二人は、当初から銃を持つ相手に対してのシュミレーションを行って
いた。そういう相手には一瞬の隙も与えずに、頭部に強烈な打撃を与える、という
事である。撃たせる前に倒してしまわなくてはならないからだ。オルゴンの力があ
るとはいえども、彼女らは生身の身体である。弾丸をかわしきる事など不可能なの
だから。

「それにしても、仲間がいるのもお構いなしに銃撃するなんて、よほどー」

 言いかけた光は、化粧室の大きな鏡に映ったものに驚き言葉を止めた。
床に倒れていた筈の軍服姿の男が、ゆっくりと立ち上がるのが見えたからである。
それで一瞬だけ光は反応するのが遅れてしまった。

 軍服男は驚くべきスピードで近ずくと、分厚いブーツで光の横っ腹に正面蹴りを
放った。

「げふっ…!?」

 さすがの光も両手を床につくほどのダメージを貰ったが、両足を広げて踏ん張り
倒れる事はしなかった。が、男はさらに素早い動きでボディブローを光の腹に食ら
わせる。そのダメージは光の身体が浮き上がるほどで、次々に繰り出される連打に
光は防御するのがやっとであった。

(…この動き、ボクシングだわ。それも本格的な…)


「このっ!」

 すかさず秘書が軍服男に飛びかかるが、男は素早いフットワークで飛び蹴りを
かわす。そして光を圧倒したボクシング流のパンチを繰り出してきた。

「…気を付けてっ!本格的なものよ!」

 が、秘書はそれらをことごとく避けると、逆に強烈なワンツーパンチを軍服男に
叩き込んだ。恐ろしく重いパンチを顔面に入れられた男はぐらつき、さらに秘書の
連打を食らってぐらついてしまう。

 スピードでは秘書の方が軍服男を上回っているようだった。
さらによろめく男にジャンプ一番、秘書のドロップキックが背中に直撃する。
その一瞬に光は助走をつけ男の顔面に強烈な上段蹴りを叩きこむ。

 

          

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 その打撃のダメージは軍服男がその場でくるりと回転するほどで、二度ほど回っ
た時、光は素早く男の顔を両手で掴むと無理やり自分の股間に頭を挟み、プロレス
でいうところのパイルドライバーの態勢に捕える。

 さらにその態勢のまま光は自分の長い両足を男の両腕に挟み込むようにすると、
完全に身動きも受け身も取れない態勢のまま、軍服男をうつぶせ状態で床に叩きつ
けた。床のタイルにひびが入るほどの衝撃である。


「何て硬い頭なんだろ?まるで石みたい。」
「…これで起き上がってきたら、もうお手上げよ。」

 やれやれという表情で光がその場に立ち上がり、両手のこぶしをさすっている
秘書をちらりと見ながら言った。確かにタフな男であったが、これだけ二人の打撃
を浴びまくったのでは立ち上がる事など出来る筈もないだろうと、床にうつぶせで
倒れている軍服男を見つめ光は思った。

 それは奇妙な男だった。
身長はかなり高いが、えらく細っそりとした体格をしている。だが、その見た目の
印象よりもずっと力は強く耐久力もあった。


「…早いとこ、ここを去りましょう。ぐずぐずしてるとまたー」

 と、今度こそ起き上がる事は無いと思われていた軍服男が、両手を腕立て伏せの
ようにしながら体を起こした。

「ちょっ…この人、不死身!?」

 驚きの声を上げる光だったが、ゆっくりと立ち上がった男の顔を見て言葉を止め
る。何故なら軍服男の頭部の皮が、先ほどの光のプロレス技によって大きくずれて
しまっていたからだ。

 例えるなら、被っていた覆面がずれてしまったような…目や鼻の位置が不自然な
位置になっていて、そして何か、今まで嗅いだ事もないような不気味な異臭が男の
身体から漂ってくる。

「わああぁぁああっ!?なんかごめん…!」

 光が恐怖の声と共に謝った瞬間、軍服男は少しもこたえた様子も見せずに両手を
前に出しながら二人に向かってきた。目の位置がずれている事で、軍服男はまとも
に走る事が出来なかったが、それでも彼女らを追いかけようと飛びかかってくる。

「きゃああぁぁ!?怖い怖い!」
「光さん!?どこにー」

 悲鳴と共に逃げ出した光を追いかけるように、秘書も一緒にトイレから走り出る
と、一目散に外へと向かって走り出す。


「…ここは逃げましょう!あの男は何かおかしいわ…車に乗って急いでここを離れ
るのよ!」

 だが、ショッピングセンターの入口を出た光は薄暗い通路を振り返ると、何を
思ったか自分の下着を下げ足から引き抜くと、ドアが開いている入口の端に引っか
け、伸ばしながら反対側の端にも引っかけロープのように張った。

 薄暗い入口では、伸ばした黒い下着は保護色となっているため見えずらい。
つまり光は、追いかけてくる軍服男の足元に即席の”罠”を張ったのである。

「光さん、パンツ伸びすぎ…!」
「……いいの!ほら、来たわよ!」

 

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 ショッピングセンターから離れた二人は、はす向かいにある駐車場へと走る。
と、後ろの方で何かが倒れるような大きな音が聞こえてきた。おそらく足元の罠に
軍服男が引っかかったのだろう。

 ワゴンの傍には真理や博士らが集まっていて、走り出てきた光らを見つけると
不安げな表情で見つめた。

「おい、どうなったんー」
「…急いで車出して!やばい、やばい!!」

   その光の慌てように、みな急いでワゴンに乗り込む。
すぐに車のエンジンをかけ駐車場を出ると、ショッピングセンターから軍服男が飛
びだしてきた。

「光さん、追っ手はどうなったんだ?」
「…二人いたわ!二人目の顔が…叩きのめしたら変形しちゃって…何か少しだけ怖
い事になって…」

「危ない…!」

 車が道路に出た瞬間、軍服男がワゴンの正面に飛びかかろうとして両手を広げた
が運転手の真理は素早くハンドルを切ってそれを躱した。博士はその瞬間、軍服男
の顔面を窓越しに一瞬だけちらりと見た。

 顔面の皮が完全にずれていて、破れかけた部分から、本来の両目がある位置に
真っ赤な色をした二つの目らしき物があった。

「おいおい!少しどころじゃないぞ!?怪人レベルじゃんか!」
「とにかく…!真理、飛ばして!早く町から離れるのよ!」


 光に言われて真理は、暗くなった日光の街を物凄いスピードで駆け抜けてゆく。
幸い車も無く、道路も混雑することなく山道へと入る。いわゆる「いろは坂」と
呼ばれる坂道で、この先、日光市の中心へと続く。

「…きっと追ってくるわよ?あれは普通じゃないわ…。」

 山道へと入ってゆくワゴンの後部座席から、光は後ろを振り向いて言った。
確かに、オルゴンの力を持つ二人がいくつもの超打撃を与えたにも関わらず、立ち
上がり追いかけてきた軍服男。

 おまけに顔の皮が大きくずれてもお構いなしで、普通の状態だと考えるのは少々
無理がある。


「それにしても薫ちゃん、あなたが怖がるなんて珍しいわね?」
「私、ああいうホラー的なものは苦手なのよ…。」

 珍しく震える声で話す光を見て、興味深げに須永理事長が言った。
ワゴンの中の面々はすでに変装が無意味だという事に気がつき、いつもの服装へと
戻っている。あとは「いろは坂」を超え、目的地である緑川町へと向かうだけだっ
たのだが…。

「…この山道で決着をつけるわ。でないと、私たちの目的地が敵にバレてしまう…
いえ、追っ手が他にもいればもうバレているかも知れないけど…」
「来たぞ…!」

 博士が背後を振り向きながら言うと、急カーブを物凄い勢いで曲がってくる車が
見えた。例の黒いランドクルーザーである。

 

 

 

 


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 その車がスピードを上げて真理の運転するワゴンへぐんぐんと迫り、とうとう横
に並んでしまった。運転しているのはやはり軍服姿の男で、横に並んだ瞬間こちら
に顔を向けた。軍服の上着がはだけていて、中に着込んだラガーTシャツが見えて
いる。

「…見て!?あの顔ー」
「ぎゃああぁ!?ラガーマンTシャツだ…!」

 

         f:id:hiroro-de-55:20200426141708j:plain



 男の顔の皮はさらに真横にずれていて、破れかけた部分から赤い両目が爛々と輝
やいていた。ワゴンの中は悲鳴に包まれパニック状態だったが、一人運転する真理
だけは冷静にハンドルを握り続けている。

「…危ない!みんな伏せてー」

 真理が叫んだと同時に、隣に横ずけしながら走るランドクルーザーの運転席から
男が銃を構え、こちらのワゴンに向けて発砲してきたのだ。幸い助手席の窓ガラス
が割れただけだったが、軍服男は運転しながらさらに銃をこちらに向ける。

「どいてっ!」

 後部座席の涼子が自分の拳銃を構え、隣を並走する車の運転席へと弾丸を数発
撃ち込んだ。その一発が、軍服男の頭付近に命中したのである。

「…さすが射撃の名手!」
「当たった……どうしよ!?」


 だが、運転席の男はまるで堪えた様子も無く今度は手を伸ばし、助手席に座る光
の頭を掴み自分の方へと引っぱった。物凄い力で大きな光の身体を無理やり自分の
車に引きずり込もうとしているのだ。

「…痛い、痛い、痛い!誰か、助けて~!?」

 髪の毛を掴まれているので悲鳴を上げながら暴れる光の身体は、半分ほど隣の車
に引きずり込まれている。後部座席の博士が、慌ててその足を掴もうと身を乗り出
す。

「…尻が出てる!?」
「ちょっ…と薫ちゃん!何でノーパン!?」

 ワゴンの中は須永理事長の笑い声と光の悲鳴で大騒ぎとなったが、その間も真理
はスピードを並走する車に合わせて冷静にハンドルを握っていた。スピードを出し
過ぎても落とし過ぎても、光が車から落ちてしまうからだ。

「この…くそっ!!」

 髪を掴まれたまま、光は真近にある軍服男の不気味な赤い目に、思い切り唾を吐
きかけた。さすがの狂人もこれには堪らず、その赤い目を閉じ頭を振る。その隙を
みて光は掴まれていた髪の毛を振りほどき、ワゴンの方へと皆に引き戻された。

「…だあぁっ!危なかったぁー…」

 光が戻ると、運転席の真理は一瞬だけにやりと笑みを浮かべ、スピードを上げて
ランドクルーザーを引き離しにかかる。

「あっ…そうだ真理、下着の余分持ってる?」
「はっ?」


 急カーブが続く坂道を走るワゴンに後れをとりながらも、軍服男のランドクルー
ザーはなおもスピードを上げ、確実に追いかけてきた。

 そしてまたもランドクルーザーはワゴンの真後ろへとやってくる。
フロントガラスは先ほどの涼子の銃撃で大きくひび割れていて、運転席の男の様子
は窺い知る事は出来ないが、猛スピードで急カーブを追いかけてこれるところを見
ると、諦める気はまるでなさそうだ。

「どうするね?」
「…正直お手上げね。私ら二人がかりでもダメージを与えられない上に、顔があん
な事になっても堪えた様子はない…もう私にはあれが人間とは思えないわね。」

 ワゴンの後部座席から真後ろに迫る軍服男の車を眺め、光はあきれ顔でそう言っ
た。

「なら、運転手が壊せないんだったら車の方を壊せばいいんじゃないかしら?」 
 
 化粧をしながら、優雅に鏡を覗いている須永理事長がぼそりと提案する。
彼女は先ほどの洋服屋で一人買い物を楽しみ、新しい洋服に着替えていた。しかも
猛スピードで山道を曲がり続けるワゴンの中にあって、器用に化粧を施してゆく。

 

 


枯葉_レイモン・ルフェーブル

 

 

「映画なんかで良く見ますでしょ?車のタイヤを銃で撃ち抜くんですの。」
「そんな簡単にはいかないわよ!あんなの映画の話だし…それに弾はあと一発しか
残ってない…私にはそんな腕はないわ。」

 涼子がしかめっ面で自分の拳銃を見ながら言った。
すると、それをするりと手にした須永理事長が、開けた窓に身を乗り出し背後に迫
りつつあるランドクルーザーに向けて拳銃を構える。

  その瞬間、軍服姿の男も運転席から身を乗り出し小型の銃をワゴンに向け数発
撃ち込んできた。

 

「…良美ちゃん、危ないわ!」
「真理さん!スピード落とさないで!」

 ランドクルーザーから向けて放たれる銃撃の中、須長理事長はしっかりと拳銃を構
えたまま、心配する光の言葉を無視して運転席の真理に大きな声で言った。

 

 一発しかない弾丸を、飛び交う軍服男の銃撃の中、冷静に狙いをつけた理事長は引
き金を引いた。

 

 

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「…っ!?」

 弾丸は見事タイヤに命中し、猛スピードで走っていた軍服男のランドクルーザー
はパンクの影響でまともに走る事は出来なくなり、ジグザグに蛇行しながら最後は
コンクリの壁に激しく激突して止まった。まるで映画のワンシーンのように。


「…凄い!一発で仕留めた!」
「うっそ……!?」

 手放しで喜ぶ秘書の隣で、涼子は唖然としながら数十メートル後ろの壁に激突し
た黒い車を見つめている。止まった車から軍服姿の男が出てくる気配はない。それ
を見て、真理の運転するワゴンは静かに路肩に停車する。

 須永理事長は蛇のようにするりとシートに戻り、唖然としたままの涼子に拳銃を
返すと、肩を押さえてシートに崩れ込んでしまった。押さえる手の隙間から赤い血
が流れる。

「血が…!?」
「良美ちゃん…!あなた撃たれたのね!?」
「……かすっちゃっただけ。でも、ちょっと痛いわね…。」

 いつものようににこやかに笑う須永理事長だったが、額から汗が噴き出してきて
、かたかたと震えがきている。

「大丈夫、すぐに治すわ。」
「…薫ちゃんごめん、私のミスよ。私がカードを使ったから…足がついたのね…」
「いいのよ…。」

 光は理事長の肩口に布を当て強く抑えると、すぐにコンパクトを取り出し片手で
薬の調合を始めた。オルゴンの力と並び、間宮薫という存在が魔女と呼ばれる所以
となった神秘の細胞再生薬である。

 増殖する活性細胞が、細胞と細胞を繋げていき肉体を再生するのだ。
それをいくつかの菌と薬剤の調合で行う、彼女だけのオリジナルブレンドである。

 完全とまではいかないが、時として人の命すら取り戻す力がある秘密の再生薬…
傷を治す事など造作もないことだった。弾丸が肩口にかすり、かなり出血はしたが
光の処置で良美の傷はみるみるうちに塞がり、血の気の引いていた顔色も徐々に戻
ってゆく。 

「薫ちゃん、これでミスの借りは返したわよ?」
「えっ?ああ、そうね……お馬鹿。でも、ありがと。」

 理事長は自分のミスで追っ手に見つかってしまったという汚点を自らの手で晴ら
したのだ。


「…見て!車がー」

 壁に激突したままの車から突如火の手があがる。
ガソリンが激しく燃え、ランドクルーザーはいっきに火に包まれた。これではさす
がの軍服男も無事では済まないだろうと、皆は思った。


「…しかたない事よ。あの男は私たちを全員抹殺するつもりだったんだから。こう
でもしなければ、私たちが逆にやられていたのよ。」

 燃える車を静かに見つめながら、ワゴンはゆっくりと走り出す。
目的地である緑川町は坂を下りた日光市街地の、そのさらに山奥にあるのだ。敵の
追っ手がどれほど待ち構えているのかが分からない以上、一刻も早く目的の町へと
到着しなければならない。

 そして、その目的の緑川町まで、あと十数キロというところまでやって来たので
ある。


(続く…)

水面の彼方に 20話

 

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           20   女性用化粧室の悪夢


 レストランを出た秘書や須永理事長らが、向かいにある洋服屋でお気に入りの服
を選んでいる同じ頃、その行方を追っている江田はつい先ほどまで彼らが食事を取
っていた洋風レストランでコーヒーを飲んでいた。

 江田にとって仕事前のブラックコーヒーは、どんなものより格別な贅沢であり、
幸せな気分に浸れる時間だった。インスタントではない、本物の豆から挽いた匂い
は格別なのだ。

 ウェイトレスがカウンターに座る江田の前にコーヒーのカップを置くと、彼はし
ばらくの間その上品な匂いを楽しむ。仕事の過酷さを忘れる事が出来る唯一の時間
である。大仕事の前はいつもこの一人の時間を楽しんでいた。

 江田の仕事はその性質上、自分の正体を人に知られてはならない、というのが
大前提であり、普段から友達や知り合いすら作ってはならなかった。最も、江田に
とっては仕事そのものが趣味のようなもので、友達や親友など邪魔な存在にしかな
らないと考えている。

 そんな江田にとっての、一人のコーヒータイムは何よりも大事な時間だ。
何者にも邪魔されない、そして誰もが自分を知る事もなく、ゆっくりと香りを楽し
む事が出来る時間ー

 だが、この日はいつもとは少しだけ違っていた。

 

  カウンターに座りコーヒーの匂いを楽しんでいた江田の隣に、一人の男が座った
のである。

「となり開いてるかい?」
「あ?ああ、開いてるけど…」

 カウンターは江田の席以外全て開いている筈なのに、その男はわざわざ隣の席に
座った。黒い防寒着のような物を着た目元まで隠れるバンダナを頭に被っていて、
手にしていた水のコップをカウンターに置いた。


「…それにしても、今日は良いお天気だな。おたくもそう思わんかね?」
「なに?天気……?ああ、まあな…」

 バンダナの男は傍にある砂糖をコップの水に入れ、それを一口飲み干すと奇妙な
笑みを浮かべて江田に話しかけてきた。

「今日は一日、あちこち動き回ったもんで両足がパンパンだ。あ、おたく一本やる
かい?」

 そう言ってバンダナ頭の男は、江田に向かって煙草の箱らしき物を見せる。
見ず知らずの男に煙草をくれるという奇妙な男を用心深く見つめていたのだが、
いつになく幸運な日になりそうだと感じていた江田は、喜んで男の煙草に手を伸ば
す。

「……すいませんね。じゃあ一本…」

 江田はバンダナ男の差し出す箱から一本だけ煙草を抜くと口にくわえて小さく頭
を下げた。

「いやなに、ただのチョコレート菓子だ。遠慮なくやってくれたまえ。屁の役にも
立たない煙が出ることもないしな。」
「…………。」

 冷めた目で口の煙草をカウンターに置いた江田を無視するように、バンダナ男は
煙草を模したチョコレート菓子を、本物さながらに吸う真似をして満足げな表情を
している…。

「……あんた馬鹿にしてんのか…?あ?」
「おいおい、冗談に決まってるじゃないか!あんた気が短いんだな?」

 江田は頭にきて、すぐさま席を立とうと両手をカウンターについた。
頭のおかしな者を相手にしている暇は無いのである。それでなくても大事なコーヒ
ータイムなのだから…。

「何だお前?知り合いでもないのに馴れ馴れしいぞ!?」
「まあ、確かに…俺だってあんたみたいな男と知り合おうなんざ思っちゃいない
さ。まあまあ、そう怒らずに奥のテーブルを見てみろよ?当然、君は彼女の事も
知ってるんだろ?」

 江田はいらつく表情で背後を振り返り奥のテーブルを見た。
そこには先ほどすれ違った、女刑事の村山涼子が不機嫌そうな表情でこちらを見つ
めている。

 

                                 (ちょっと待て、何だと…!?)

 

 男はいつの間にかバンダナをはずしていて、江田にとっては見慣れた顔が出て
きた。そう、自分が追いかけているターゲット、例の探偵の一人だ!

 

 

 


【無料フリーBGM】怪しい道化師のテーマ「Enchanter2」

 

 

「お、お前は…!?」
「まあ、座れよ。でないとあんたの頭が吹き飛ぶ事になるぞ?」

 慌てて椅子に座り辺りを見回し始めた江田に、さらにぼうず頭の探偵が囁くよう
に声をかける。

「…彼女の射撃の腕前は、板橋署の中でもナンバーワンらしい。数百メートル離れ
た凶悪犯の肩に銃弾を命中させたという逸話があるほど射撃の名手なんだ。」
「…………。」

 少々パニック気味だったが、震える手でコーヒーを一口だけ飲み込み、現状を
冷静に分析しようとした。何故、どうして自分の正体が連中にバレたというのか?
どう考えても有り得ない出来事に江田はうろたえてしまった。自分の正体が敵に
バレてしまったなんて事は今回が初めてである。おまけにコーヒーの味も感じられ
ないほど江田は動揺していた…。

 そして不安からか、胸のポケットにしまっておいた銃に手を伸ばす。
人前で銃を使うなどという行為は、江田のような暗殺のプロには自殺行為のような
ものだ。事件にでもなれば自分の正体が世間に知られてしまうからである。だが…


「…おっと、あんたがかなりの射撃の名手であろうと、彼女には到底敵わないぜ?
おまけに彼女は街の中だろうが店の中だろうが関係なく発砲するぞ?もちろん腕前
が確かだからこそ発砲出来るんだがね。おまけにひどく短気な性格をしてる。」

 江田はまたしても、背後のテーブルをちら見した。
先ほどよりもさらに彼女は不機嫌な表情でこちらを睨み、小首を傾げカップのコー
ヒーを飲んでいる。


「……どうやって知った?俺をどうする気だ?」
「まあまあ、そう慌てなさんなって。」

 そう言いながら博士は、窓の外に見えるはす向かいの洋服屋をちらりと見る。
こちらからでも向こうの洋服屋の様子が見え、背の高い光や秘書の姿がちらりと見
えた。

「まず、少し話しをしようじゃないか?」

 動揺を隠せない江田に対し、博士は陽気に笑いながら言った。
洋服屋にいる秘書や光らが、こちらの様子に気ずいてくれる事を祈りながら…。

 

 

 

          f:id:hiroro-de-55:20200426093123j:plain



 道路を挟んだレストランの向かいにある洋服屋に入った須永理事長らが、お気に
入りの服を探している間、光は落ち着きなく窓の外の様子を眺めていた。辺りは日
も暮れ始め暗くなりつつある。

 追っ手が自分たちを追いかけられない事情を知りつつも、何時どこで何者が襲っ
て来るとも限らないと光は考えていた。何かの秘密に関わってしまった以上、敵さ
んは簡単には自分たちを見逃す事はしないはずで、何かの罠を仕掛けている可能性
はある。ましてここはすでに敵のアジトの近くなのだから…。

「光さん、どうかした?」

 秘書がさっそく購入した服に着替え、暗い窓の外の様子を眺めている光に声をか
けてきた。先ほどまでの制服と違い、大人っぽいワンピースに身をつつんでいる。
もちろん、光もすでに買い物と着替えを早々と済ませていた。

「いえ…何でもないわ。あら、良い服ね?」
「そうなの、博士こういうピッタリした身体のラインが出る服が好きなの。」

 女子高生から大人の女にチェンジした秘書の全体のシルエットを眺めていた光は
その背後に、暗い窓の外の明るいレストランが見えた。光は通常の人間よりも非常
に視力が良い。

「あら…?早紀ちゃん、あれを見て?」
「はい?何です?」

 光の指さす先には、道路を挟みレストランが見える。
秘書にもぎりぎり窓の中に博士の姿が確認できた。カウンターで何かを飲んでいる
ようだが、隣に座る男性らしき者と話をしているように見える。

「あれ、誰かしら?」

 時折、博士はレストランの中からちらちらと自分たちの方に視線を送っていた。
歯を食いしばってみせたり、目を閉じたり開いたり…変な顔をこちらに向け、何か
をアピールしている…。

「…ねぇ、あの博士って誰にでも声かけたりするの?」
「いいえ、知らない人に絶体声かけたりはしないわ。まして男なんか特に…」

 秘書はそう言ってから何かに気が付き、隣でレストランを見つめる光と顔を見合
わせた。

「…て、ことはー」
「あっ!あれ、博士のSOSだわ…!」

 光はさっと顔色を変え、須永理事長について洋服を探している真理のところへと
急ぎ足で向かう。理事長はすでに危険な逃走中だという事をすっかり忘れて、買い
物を楽しんでいる。


「…真理、ちょっとの間、良美ちゃんを頼むわ…。」

 耳元で囁くように言う光の表情が硬い事に気がついた真理は、無言で頷いて理事
長の方へと向かった。光の表情から、只ならぬ事だとすぐに気ずいたのである。

 そして光は秘書の手を掴むと、狭く迷路のような洋服屋を急ぎ足で駆け抜ける。

「…早紀ちゃん、”アレ”の準備が必要かもしれないわ。」
「えっ?あ、アレって…!?そんないきなりってー」

 急な事とはいえ、光にはいずれこういう事態がやってくるとは思っていた。
つまり、自分たちの逃走が敵に看破され、いよいよ追っ手がやってきたのである。 

 

 

 

「…一体どうやって俺の事が分かったんだ…!?」
「そりゃ簡単さ。」

 顔色のすぐれない江田は、隣で美味しそうに水を飲んでいるぼうず頭の男に消え
入りそうなほど小さな声で言った。

 江田のような追跡と暗殺を主に行っている者にとって、自分の存在が他人に知ら
れるという事は死刑宣告を受けたようなものである。一刻も早くこの場を逃げ出し
たい衝動に江田はかられていた。

「…君が昼間、外に置いてあるランドクルーザーで我々の車を追い抜いていった
だけなら、追っ手の一人とは気がつかなかったさ。」
「じゃあ、何で気ずいたんだ…?」

 博士は砂糖水を味わうように一口ずつちびちびと飲みながら、ゆっくりとその
質問に答えて言った。

「たぶん君は知らんだろうが、聖パウロ芸術大学周辺の土は珍しい赤土なんだそう
だ。おまけに昨夜はにわか雨もあり、砂利道はぬかるんでいたのさ。君のランドク
ルーザーのタイヤには例の赤土がついていたよ。一般人はあんなところに行く事は
ない。おまけに言えば、君のその趣味の悪い靴にも赤土がついている。これだけの
証拠があれば、君が追っ手であると考えるのは難しい事じゃない。」

「…なるほどな。」

 レストランに備え付けてある時計をちらりと見つめ、博士はにやけた表情とは
裏腹に、「早紀君でも光さんでも、早く気ずいてくれ!」と心の中で悲鳴を上げて
いた。

 それはもちろん、一緒にいるのが恐ろしい追っ手の一人という事もあるが、悪い
事に追っ手は一人ではないということを博士は知っていたからである…。


 時間を稼ぐのも限界だと感じ始めた博士は、そろそろ本題に入ることにした。
博士が握っている事実を、この隣に座る男に尋ねなければならない。

「…ところで、君は本当に一人でここまで来たのかい?」
「当然だろ、俺は諜報活動が主な任務だ。単独でしか行動しない。」

 男の言葉を聞き、博士は意外な表情を浮かべた。
ということは…

「変だな…さっき君の車を見ていた時、僅かに開いた後部のトランクに誰かいたよ
うな気がしたのだがね?うーん、何ていうか…鼻っつらの長い顔をしていたな。」
「何だって!?」

 その博士の言葉を聞いて、江田の表情は急に変わった。
何か思い当たるふしでもあるかのような…どこか怯えているような、そんな表情で
ある。

「けど、変だなぁ…単独で活動する君に知られずに車に隠れているというのは…」


 江田は急に席を立ち、怯え慌てたように窓の外を見回し始めた。
そして暗い駐車場を見つめ、隣に座る男の言う言葉に、ある人物を思いだす。
鼻っつらの長い男…そう、基地を出る前に指令室のドアに立っていた奇妙な兵士…

(…あいつが俺の車のトランクに隠れているという事は…白石司令の命令の筈だ。
奴は俺を監視しているのか?なら、敵に自分の正体がばれたなんて事になったら、
俺は奴に始末されるかもしれん…あいつはー)

 と、慌てる江田の奇妙な行動に涼子が気がつき、テーブルから立ち上がると博士
のいるカウンターの方へ、眉毛をしかめながらやって来る。

 それを見た江田は、涼子に体当たりをかけるような勢いで走り出し、レストラン
の外へと飛び出していった。

「…何なのよ!あの人、危ないじゃないの!」

 店を飛び出していった男の方を睨みながら涼子が文句を言う。
博士は驚くウェイターに千円札を一枚テーブルに置くと、涼子の肩をぽんと叩いて
言った。

「…涼子君、今のは追っ手の一人だ。我々の事が敵にバレたぞ。」
「ええっ!?ちょっ…大変じゃないの!皆にも知らせないとー」

 博士は窓の外の洋服屋の方をちらりと見やる。
先ほどまで見えていた光と秘書の姿が無い…気ずいてくれているといいのだが、と
博士は思いながら涼子と共にレストランを後にした。

 

 


 店の外へと出た江田は、駐車場にある自分の車をちらりとだけ見ると、一目散に
向かいにあるショッピングセンターへと向かった。とにかく、この場を一刻も早く
立ち去らねばならないと考えたからだ。

 一瞬視界に見えた自分のランドクルーザーのトランクが開いていたからである。
たった今、ぼうず頭の男から聞いた情報は間違いないことだろう…。

 あの探偵らに自分の正体がばれたのも問題ではあるが、むしろ恐ろしいのは隠れ
ていたあの奇妙な兵士だ。江田は諜報活動には長けていて、暗殺まがいの事もやっ
てのけるくらいは出来る。だが、あの奇妙な男は軍人だ。それも、過激派と言われ
る白石の直属の部下だ。自分などが太刀打ちできるものではない…。

 おそらく、トランクに隠れ自分が目的の連中を見つけたり、しくじったりした
場合、あの軍人男が代わりに連中を始末するという事だろう。あるいは俺もろと
も…


 ショッピングセンター内は、すでに店じまいを始めたところが多く、半分以上の
店舗が電気を消し、シャッターを閉めている。江田は洋服屋の店舗を通り過ぎ、暗
い通路の奥にあるトイレへと向かった。

 江田は躊躇なく女性用化粧室の方へ入ると、開いているところに入りドアを閉め
鍵をかける。幸いトイレには誰もいないようだった。女性用化粧室へと逃げ込んだ
のは、あの奇妙な軍人が入りずらいと考えたからである。

 トイレの中で江田は安堵のため息を一つ吐き、ジャケットの中の銃を取り出す。
弾が入っているのを確認すると、それを手にトイレのドアの影に隠れ息を殺して
待つ…。
 
 と、しばらくして女性用化粧室のドアが開き、何者かがやって来た。
靴音がこつこつと響くと江田は自分の心臓がばくばく鳴るのが分かるほど緊張して
個室のドアに張り付き銃を構える…。

 トイレにやってきた何者かは、隣の個室に入り鍵を閉める。
どうやら俺を追ってきた者ではないらしい…そう思い、江田は安堵のため息を漏ら
す…その瞬間ー

 物凄い轟音と共に隣の壁が江田に向かって飛んできたのである。
まるでガス爆発を彷彿とさせるような、そんな勢いで江田はトイレの個室の壁に叩
きつけられ、飛んできた壁とサンドイッチになった。

 いきなりの衝撃に江田は、痛みよりも驚きの方が勝り、一体自分に何が起きたの
かと考えを巡らせたが、それを理解するより先に顔面に飛んできた壁が崩れ目の前
に信じられない光景が広がる。

 

        f:id:hiroro-de-55:20200426094002g:plain

 

「ごめんあそばせ?ちょっと蹴り方が強すぎたみたい。」
「…光さん、トイレの壁って案外もろいのね?」

 江田のいた個室の壁を壊して飛ばしたのは、隣の個室の光と秘書だった。
暗いトイレの中、彼女ら二人の両目は奇妙な輝きを放っていて、たったいま蹴りを
入れたばかりの態勢を維持していたのだ。

 その二人、自分が追いかけていた目的の連中は、壁に叩きつけられたまま呆然と
立ちつくしたままの江田の個室へとやってくる。彼女ら二人は、その爛々と輝く目
で睨みを効かせながら、江田の持つ銃を取り上げた。

「こんな物騒な物は取り上げなきゃね?」

 光はそう言って銃を両手で持つと、雑巾を絞るようにバラバラに解体してしまっ
た。恐ろしいほどの握力である…。

 とはいえ、すでに江田には引き金を引く力も残ってはいなかったのだが、光は
念には念を入れ金縛りを起こさせるほど強力な”蛇の目”で男の目を睨んだ。
江田は個室の壁にへたり込むように尻もちをつき、指一本動かせない…まるで蛇に
睨まれた蛙のように…。

「さて…あんたが何者か、教えてもらいましょうか?」

 コンクリの壁を蹴り飛ばした女二人は、完全に身体が硬直して座り込んでいる
江田のすぐ傍にしゃがみ込みながら言った。

「…そんなもの、言える訳ないだろ…。」
「あら、まだそんな口が利けるの?困った子ね…」

 二人はさらに睨みをきかせるため、しゃがみ歩きで男の顔に近ずいてゆく。
朦朧とする意識の中ではあるが、目の前数センチにいる二人の女は江田の好み的に
見てもかなり良い女だった。一体どうやってこんな怪力を身につけたというのか?

 男の顎を片手で掴み、息がかかるほど近くで光は囁くように言った。

「…あのね?私ら、あんたたちみたいな連中と違って相手を痛めつけるなんていう
野蛮な行為はしたくないの…うん?あなただって、痛い目に遭うよりも気持ちの良
い間に全部しゃべっちゃう方が良くない?」
「そう、私たち平和主義者なの。戦うよりも、話し合いで解決したいのよ。」

 男の顔を優しげな手つきで撫でながら光は囁き、深いため息を男の口元に吹き込
む。生暖かくも女臭い、人の息というものはこんなにも気持ちの良いものか?何か
壁に叩きつけられた痛みが和らぐような奇妙な効果がある気がする…。

 実のところ江田はもうすでに、二人の女に逆らう気などまったく無くなっていた。
その間も、秘書は男の服のポケットを漁り、携帯やら武器の類を取り出しボキボキ
と折っていく。

「はい、まずあなたのお名前は?うん?」
「………江田。」
「江田なに?」
「……江田正樹…。」
「何の仕事してるの?」
「…追跡と尾行だ。」

 目の前にしゃがみ込んでこちらを睨み続けている二人の女は、驚くほど良い匂い
がした。時折、膝を抱えるようにしている足の間からちらちらと下着が見える…
たぶん、この二人はわざと自分に見せているのだ。

「どうやって逃げてる相手を見つけるの?」
「…クレジットカードだ。それを使用した場所が分かれば見つけるのは簡単さ。」
「なるほど…ね。良美ちゃんのカードの番号から私たちを見つけたのね…。」

 壁に叩きつけられたダメージはあるが、こんな良い女二人に尋問されるなんての
は、江田にとっては天国みたいなものだった。別に基地の連中に義理がある訳でも
なし…何をしゃべっても心は痛まない。個人的には、隣の若い子の方が可愛い…。

 

「…それで、ここへは何しに来たの?」
「………それは…それはちょっと…」
「言いずらい事?分かるわ、怒らないから何でも言ってもいいのよ?あなただって
仕事なんだから、そう、命令されれば仕方ない事よ…」

 金髪の女が優しげに言うと、隣の女も小刻みにうんうんと頷いて、江田の顔に
おもいっきりため息を吹きかける…彼女の息はマスカット飴の甘い匂いがした。

「…言うよ、ここへは…あんたらがやって来るのを待ち伏せて、全員始末すること
になっー」

 

 

        f:id:hiroro-de-55:20200426095521g:plain


 そう言った瞬間、江田の股間を光が激しく蹴り上げた。地面に尻もちをついて座
っていた江田が立ち上がるほどで、叫び声も出ないほど強烈な痛みが股間に与えら
れたのだ。おまけに口を大きく開けて、声も無く立ち上がった江田の股間をさらに
もう一発蹴り上げると、またも江田は激痛で真上に飛び上がった。

「…………!!!!」
「あら、あら、あらぁん、ごめんなさいね?痛かった?痛いわよね?私たちもこん
な事したくないのよ?ほんとに!でもね?悪い事する子にはお仕置きしなくちゃい
けないの…分かるでしょ?分かる?うん…分かんない?分かるまでするよ?」

 光は両手で江田の顔を掴み、地面から足が浮くほどの怪力で自分の目線まで上げ
ると、小さな子に言い聞かせるような口調で囁く。もっとも、江田はすでに光の声
など耳には入ってはいなかったが、そこから光はもう一発股間に膝をかち上げるよ
うに叩き込んだ。もちろん両手で顔を掴んだままである…。

 と、光は掴んでいた両手を江田の顔から離すと、トイレの地面にどさりと倒れ、
そのまま彼は気絶した。おそらくこの江田という哀れな男は、半年以上はまともに
歩く事も出来ないだろうと秘書は思った。


「…始末だ?舐めんじゃねっつうの…!」

 ぼろぼろに破壊されたトイレの個室に仁王立ちする光は、倒れている江田を見下
ろしながら言って隣の秘書に、にんまりとした笑顔を向ける。


「…さて、皆のところに戻ろー」

 壊れた個室のドアが取れ、倒れる音で光と秘書は後ろを振り向く…
そこには薄暗い女性用トイレに男が立っていた。暗いながらも男が軍服のような物
を着こんでいて、かなりの身長と体格をしているのが分かる。

「……光さん、なんかやばい感じ?」
「ハーイ!ここ女子トイレなんだけどー」

 光が言うなり目の前に立つ男は腰から何かの銃らしき物を手にする。
それが炸裂するのと二人が横に飛び退くのとは、ほとんど同時くらいのタイミング
であった。


(続く…)

 

水面の彼方に 19話

 

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            19  湖畔で待つ者 


 145号線に入り沼田市を通過している博士らのワゴンは、ここまで何の邪魔も
無く軽快にロマンチック街道を走っていた。

 

 市街地を抜け山へと入ると、美しい景色と急カーブの連続だが少し遅い昼食を取
るため、車は「吹割の滝」へと向かった。そこのお食事処で吹割うどんを堪能した
面々は、東洋のナイアガラと呼ばれる滝を観光して回る。

 天然記念物にも指定されているこの滝は、落差七メートル、滝幅三十メートルで
奇岩が一キロ以上にも渡り続く珍しい自然の創造物だ。この日も大勢の観光客で溢
れていたが、博士は”意図的に”観光を楽しむよう皆に伝えていた。

 これはもちろん、自分たちを観光目的でやって来た部活動の一団であると周囲に
アピールするためである。命からがら逃げている者たちが、まさか楽しそうに観光
などする訳がない…と、敵は思っている筈だと博士は思ったからだ。美しい滝を背
に、秘書や光らは記念写真を沢山撮っては女子高生の修学旅行的なものを満喫して
いたのである。

 

 ただ一つだけ、気をつける事は車の外にいる間は仲間をけして名前で呼ばない事
であった。それは敵がどこに潜んでいるかも知れないから、うかつに人前で名前を
呼び合うのは危険だったからだ。

 

 

 


Rock'n Rouge 松田聖子 耳コピ

 

 

 吹割の滝を後にしたワゴンは、またも急カーブ連発のロマンチック街道を日光市
へと向けて走る。

 現在は十五時を過ぎたところで、出来る事なら日没までには緑川町へと到着した
いという博士の思惑であったが、ことの他ドライバーの真理が厳しい山道を苦にせ
ず、かなり時間の短縮に貢献してくれた。彼女の運転技術もさる事ながら、おまけ
にかなりのスピード狂である。

 

 目的地に予想以上に楽々と着きそうだと感じ始めた一行は、この頃にはすっかり
旅行気分で車内カラオケで盛り上がっていた。もっぱら一人で歌っているのは光で
、80年代の有名アイドルの名曲をぶりっ子しながら熱唱する。女性陣全員で陽気
に「気持ちはYES!」シャウトしている時も一人博士は何かの本を読みふけって
いた。

 

         f:id:hiroro-de-55:20200425203342j:plain

 

 そうして沼田市を抜け、栃木県へと入ったワゴンはこれまた景観の美しい、戦場
ヶ原を横目に日光市へとひた走る。この辺りはすでに国立公園になっていて、広が
る見晴らしの良い湿原はまさに壮観だった。もう少し進むと、そろそろ大きな湖で
ある中禅寺湖が見えてくる。


「ちょっ、真理さん、スピード出し過ぎじゃない!?」

 戦場ヶ原の直線道路をスピードを上げてかっとばす真理の運転に、刑事の涼子は
少しだけ緊張しながら言ったが、楽しそうな表情の光は運転席の真理の横に顔を出
しながら答えて言った。

「この子、エロ教師姿で観光地歩き回ったせいで少しハイになってるのよ。」
「朝っぱらからラブホテルで眠らされて、おまけに男の人がいるところで生着替え
までさせられたんだから、観光地歩き回るくらいどってことないわ。」

 光の言葉に答えて真理は落ち着いた表情で笑う。
この娘は会うたびに大人になっていくといつも感じていて、どんどん子供になって
いく自分とは正反対なのだと光は思った。


「あ、そういえばこのおじさんも一緒だったのね。なんか車の中にいる気配がしな
いんだもの。」

 涼子が冗談めかして言うと、本を読んでいた博士はちらりと彼女の方を見る。

「うーん、そうね、確かに気配が無いっていうか、匂いかしら?」

 車内で鼻をひくひくさせながら光が言った。
ワゴンの中は五人の女性陣、特に光や須永理事長は特殊な香水を使用している。
理事長の香水にいたってはお話にならないほど高価で珍しい物であり、この世の物
とは思えないほど甘くさわやかな匂いがしており、これは秘書も貰って使用してい
た。狭い車内にはそれぞれ髪の毛やシャンプーの香りもあり、つまり女臭さが充満
しているのである。

 そこに一人だけ頭皮の薄いおじさんがいるのだから、どうしたって男性特有の
男臭さのようなものがあるはず。体臭なり、整髪料の匂いやら洗濯臭、あるいは
それらを誤魔化すための香水など、人によって様々な匂いが存在するのだ。喫煙者
などにいたっては部屋全体、服や布団にまで匂いが染み込んでいる。

 が、良くも悪くもこの博士という男には、その独特の匂いというものが無かった
のである。先にあげた物事とは無縁の生活を送っているのか…?匂いとはイコール
存在感だ。それらを完全に消しているこの男はまさに存在感の無い男である…。

「でも博士、ずっと私たちといたら逆に女臭さがうつるんじゃない?」 
「…女臭さというか、ベリー系の匂いだろうな…。」


 そんな事を話しているうちに、正面には大きな湖が見えてきた。
日光市最大の大きさを誇る中禅寺湖である。

 

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 時刻が十六時を回った頃、江田という男は中禅寺湖の畔にあるカフェバーの駐車
場で黒いランドクルーザーを停めて情報がやってくるのを待っていた。

 江田は軍人ではないが、地下基地のプロジェクトに参加する者の中では特殊な
存在だ。元々はコンピュータ関係の仕事に従事していたのであるが、その腕を見込
まれてプロジェクトに参加したのである。

 その腕とは、ハッキングである。
今も運転席で自前の小さな高性能ノートパソコンで、ある情報を盗み見ていた。


 朝方一度は連中が潜伏していたという聖パウロ芸術大学へと車を走らせ、その
脱出ルートを考えていた江田は、すぐさま日光市へと引き返してきたのである。
大学はすでに休校状態となり、もぬけの殻だった。おそらく反乱分子の仲間である
連中もあの場には残ってはいないだろう。

 それというのも、藤原司令の部下たちが姿を消して以降、連中も姿を消し高速
道路や公共機関を使用したという情報は入ってきていない。それもその筈、連中は
数年前の事件で国道を使い新潟へと抜けあるスキー場へと逃げ込んだ事がある。
つまり連中は”そういう事”をする者たちなのだ。

 そして彼らの情報を調べたところ、全員があの大学よりも東側の生まれなのであ
る。逃げ込むとしても土地勘のない関西側へ逃げるよりは東側…関東東北よりへと
向かう筈だと江田は判断したのである。

 とするなら、派手な東京方面は避け、東北方面へと抜けるのではないか?と思っ
た。前と同じ関越方面に逃げる事は無いと考えると、おそらく群馬から栃木へと
抜けていくルート…つまり120号線を通り、東北方面へと向かうのではないかと
考えたのである。しかもこの日光市ならば、基地関係の施設がいくつかある。そこ
からヘリで追跡することも可能だ。

 何より江田という男は、自分の勘という物を大事にした。
連中はわざわざ面倒な道のりを通り、フェイントをかけるような奴らなのだ、と。
となれば、間違いなく120号線を抜けこの日光を通過していく筈。ここが我々の
本拠地とは知らずに、である。

 おまけに江田には他にもいくつか違法な手段で様々な仲間から情報を引き出す事
が出来た。現代生活はあらゆる部分で機械に頼る生活をしている。いずれ連中とて
それらを使う時が必ず来る筈で、その時は確実にその場所周辺を抑える事が出来る
と。

 必死に逃げる者たちを違法な手段でもいいから見つけ出し、その驚きと恐怖に満
ちた表情を見るのが江田という男の一番の楽しみなのだ。事実そういった連中を、
これまでに数十人と恐怖の底へと突き落としてきたのだから…。


”向こうは俺の事はまるで分かりゃしないが、こちらには連中の身長体重からスリ
ーサイズまで、頭の先からつま先まで全ての個人情報が覗けられるんだからな!”

 
 と、江田は目的の情報をとうとう見つけた。
クレジットカードの個人情報で、現在追跡中の連中が所持するものである。
そのうち二人の人物がカードを所持しており、その番号を知る事が出来て江田は
満足げにパソコンの画面から目を離した。


 そしてジャンバーのポケットから銃を取り出すと、弾丸を確認しながら通り過ぎ
る車を見つめ、彼は運転席で一人にやにやと笑った。

 

 

                    f:id:hiroro-de-55:20200426090749j:plain


 道路の右側に大きな湖が見えてくると、車内の女性陣は窓の外を覗きながら歓声
をあげた。日本一高い場所にある湖、中禅寺湖である。

 今から約二万年前に男体山の噴火で出来た湖で、日光市最大の観光地として人気
を博していて、湖畔には海外の大使館別荘なども数多く存在するリゾート地にもな
っている。

 湖の畔沿いには、観光地らしく宿や洒落たホテルが立ち並んでいるのが見えてき
た。良く見ると喫茶店やお土産屋など様々なお店があり、美味しそうな物が沢山あ
りそうだった。


「少し早いけど、この辺りで軽い夕食取っていかない?この先は緑川町までゆっく
り出来そうな場所も無さそうだし。」
「賛成!お昼は和食だったから、夕食は洋食がいいな!」

 光の提案に秘書が賛成し、車内の誰も反対する筈も無く、ワゴンは湖畔近くの
レストハウスの駐車場へと車を入れた。駐車場にはたくさんの車があったが、その
いずれも県外ナンバーで、ここが観光地である事がよく分かる。

「あっ、見てよあの車、今朝の暴走車だわ。」
「ほんとだ、こんなとこまで来てたのね?」

 博士らのワゴンの三台隣に、今朝がた145号線を乱暴に追い抜いていった黒い
ランドクルーザーが停めてあった。秘書らのところからは運転手の姿は見えない。


 真理の引率で、レストハウスの端にある洋風レストランへと向かって歩く一行は
、女子高生も板についてきた女性陣に加えて、何故か頭にバンダナを巻いた博士が
後に続く。黒い防寒着を脱いだだけで、元々学生らしく見える服装の博士だったが
、完全に目を隠すような黒いバンダナがかなり怪しく見えた。

「博士、それ足元見えてんの?なんか怪しい。」
「そうかな?若者みたいで良いと思うんだけどなぁ。」


 レンガ造りの店内は、南欧風スタイルの料理を出しているレストランだった。
窓の外には少し日が落ち始めた湖が見える美しい景色が広がっていて、六人用の
テーブルに座った博士らはさっそく夕食を注文する。

 店のおすすめ、タンドリーチキン・カレーに興味を示した光は皆にも勧め、おま
けにデザートには山盛りのヨーグルトもつけた。秘書や真理も同じ物を注文したが
、デザートは各々違う物を嬉々として選ぶ。

 中でもメニューを選ぶのに一番時間がかかったのが須永理事長で、一人だけ違う
物を細かく注文した。おっとりとした口調ながら、パンの焼き方から紅茶の入れ
具合まで長々と細かく注文するという…いわゆる”嫌な客”である。

 しかし、博士が注文した物はその中でも異彩を放っていた。
目深にバンダナを巻いている博士は、中禅寺湖ランチなるお子様ランチを注文した
のである…。

「…ちょっと、本気なの?」
「ああ、急に食べたくなったんだよ。色んなのついてるし。」



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 メニューを注文し終わり、さすがに長距離ドライブの疲れも見える面々は料理が
やってくる間、ぼんやりと窓の外の湖を見つめていたが、その間も、一人だけ光は
レストランの中を注意深く見回していた。まばらの客の中には怪しげな者は無く、
いずれも観光目的の中高年や家族連ればかりだった。

 そこで光は深夜、一人で大学に侵入してきた男が言っていた事を思いだす。

”この二・三日ある作戦行動に大部分の兵士を投入する事になる、お前たちが逃げ
るにはこの間しかない”と…。おそらく連中は何かの問題で自分たちを追いかける
ための人員を送り込む事が出来ないのかも知れない。それは好都合な事だけど…

 何かの秘密に近ずいた私たちを抹殺する事よりも重要な作戦とは一体何だろう?
何が起きるのか分からないけど、たぶん茶封筒を送ってきた人物は、その重要な作
戦とやらに関係がある筈…。

「どうかした?」

 隣に座る真理が、頬杖をついて何かを思案している光の顔を覗き込んで言った。
マスカラつきで、少しけばいくらいの厚化粧顔の真理だが、光にとっての彼女は
いつでもドキマギさせられる存在だ。

「ああ、いえ…何でもないわ、あっ、カレー来た!」


 食事の間は、ほとんど誰も口を利くことも無く黙々と平らげてゆく。
が、どうしても女性陣の目は博士の食べるランチにいってしまう…。皿の中央には
男体山を模したケチャップ・チャーハンがあり、その山頂付近に日光と書かれた旗
が刺さっている。その麓には中禅寺湖と思われる青色のラムネゼリー。明らかに
インスタントと思われる平べったいハンバーグに、異様なほど赤いタコさんウイン
ナーつき。

「…パサパサだな。何でランチだけこんなクオリティー低いんだろうな?」

 博士の独り言のような言葉にも、女性陣は無言で食事を続けた。
とにかく、タンドリーチキンの香ばしい匂いが食欲をそそり、次々とカレーを口に
運ぶ手をとめる事が出来ない。

「…チキン・カレーうまいかい?」

 彼女らの食べる姿を真面目な顔でじろじろ見つめながら博士は言った。
女性陣は無言ながらも、みな可愛らしい表情でうんうんと頷く。女性というものは
美味しいものを食べている時、少女の顔に戻るそうだ。

 博士はランチについているプラスチックで出来た白鳥の玩具を手にして、無言で
食事を続ける彼女らにさらに言葉をかける。中禅寺湖名物の白鳥型ボートを模した
玩具だ。

「…自分らもさー、このランチ注文すればよかったと思うだろ?え?」

 何故か喧嘩腰の博士の口調に、彼女らは無言で下を向いて食事を続ける。
博士は青いラムネをスプンですくって舐めると、何とも言えぬ渋い表情でぼそりと
呟いた。

「あまっ……カレーにすればよかったな…。」

 そこで堪らずに、彼女らは吹き出して笑ってしまった。

 


「あら、私くしとした事が、お財布忘れてきちゃったわ。」

 食事もあらかた終わった頃、須永理事長が自分のカバンを漁りながら言った。
皆ばたばたと大学を逃げ出してきたので財布も持ち出してはきていなかったのも
無理も無い話だったが、無銭飲食というわけにもいかず、理事長は一人レストラン
を出て、はす向かいのコンビニにお金を下ろしに行った。

「あのさ、博士。ここ通り過ぎたら例の町までノン・ストップでしょ?」
「ん?ああ、たぶんそうだね。」
「もう日も落ちて暗くなるし、車に乗ったら服着替えてもいい訳でしょ?ほら、向
かいにお洒落な洋服屋さんがあるの。買い物していこうよ?」

 秘書の提案で、レストランを出た面々は、一度警部に電話をかけるという涼子を
残して向かいにある洋服屋へと向かった。こうなるとほとんど観光気分であったが
、実はこの時とんでもないミスを犯していたのである。

 


 ランドクルーザーの運転席で横になり情報が入るのを待っていた江田は、ノート
パソコンに待望の知らせが届き飛び起きた。それは、連中の一人がATMを使い
現金を引き出したという知らせで、もちろん違法な手段で得た情報である。

 しかも、そのATMの所在場所はこの日光市、それも江田がいま車を停めている
駐車場のはす向かいにあるコンビニであった。

 カードの持ち主は須永良美…たった今、十五万ほど引き出している。

 すぐさま江田は外のコンビニを覗き見る。
女子高生風の女が中から出てくると、隣にある洋服屋へと入っていった。間違い
ない、あれは聖パウロ芸術大学の理事長だ。大きな胸が特徴だというのはすでに
知っている。

「…そうか、連中は学生に扮して逃げているな。そうか。」

 そう思って江田は今朝がたすれ違った奇妙なワゴン車を思い出し、駐車場を見渡
す。あった!清感高等学校バトミントン部と書かれた奇妙なワゴンである。よく見
ると、マジックで書かれた子供だましのような細工だ。

 江田はあまりの幸運に笑いが止まらず、車の外に出て連中が先ほどまでいたレス
トランへと向かった。服屋に入った連中が戻るまで、悠々とコーヒーでも飲んで待
とうと考えたのである。

 連中がワゴンに戻ってきたら、暗くなった駐車場でサイレンサー付きの銃で撃ち
殺し、一人だけ生かして連れ去るのだ。情報を聞き出すのは一人いればいい訳だし
、元々一人残らず抹殺するのが目的である。


 江田がレストランへと入ると、店内には数名の客と、女子高生らしき服装の女が
一人、奥のテーブルで携帯をいじっていた。おそらく連中の一人、刑事の村山涼子
であろう。多少変装しているとはいえ、彼らの画像を確認済みの江田にとっては、
騙されようがないし、その身体的特徴は変えようがない。


 つい笑みがこぼれそうになるのを抑え、江田は携帯をいじっている涼子の横を通
り過ぎ、レストランのカウンターに座りコーヒーを注文した。

 

 


 涼子は何度かけても利根川警部の携帯に繋がらない事に不安を覚え、メールを
うって携帯を閉じた。

 これから自分たちが向かう緑川町へと一足先に向かった利根川警部の身に何か起
きたのではないか?何度かけても繋がらない携帯を見つめてそう思った。何か通話
の呼び出しが途中で打ち切られるような、そんな奇妙な現象が起きていた。

 例の緑川町という町がよほどの山奥なのか?あるいはその町に電波を妨害する何
かがあるとでもいうのか?


 すると、先ほど秘書や光らと共に洋服屋へと入っていった博士が、レストランへ
と引き返してくるのが見えた。彼は一度、店の入り口付近で立ち止まり駐車場の方
をしばらく見つめていた。腕を組んで考え込むしぐさをしたり、しゃがんで何かを
覗くような態勢をしたりしている。

      ”…あの人、一体何を見てんのかしら?”

 レストランへと戻り、にやにやとした笑みを浮かべながら窓際の涼子のテーブル
へとやって来た博士は客も少ない店内を見回した後、涼子に聞こえる程度の小声で
ぼそりと呟くように言った。

「…よし、いっちょうやるか。」
「はっ?何のこと?」
 
 涼子が飲んでいたコーヒーをいっきに飲みほし、水の入ったコップを手にすると
博士は席を立った。

 

       f:id:hiroro-de-55:20200426091403j:plain

 

      (続く…)

 

水面の彼方に 18話

 

           f:id:hiroro-de-55:20200425200159j:plain

 

          18  ロマンチック街道


 智佳子が最寄りの駅へとやって来たのは、その日のお昼近くの事だった。
旅とはいえ荷物はそう多くは持たずに家を出たのだが、背中には背負いバックと
折畳用の傘、そして頭にはお気に入りのつば広状のハットを目深にかぶっている。

 この十年近く電車を利用したことなど無かった智佳子にとっては様変わりした駅
のようすに面食らう反面、一人で旅に出るという人生初の試みに心が浮き立つ気分
を抑える事が出来なかった。

 家を継いでからというもの、どこへ行くにも母親やらお付きの者がいたし、電車
などの公共機関を利用することなど一切なかった。分かりやすく言うなら、一般人
たちが住まう”俗世界”と関わることがまるで無かったのである。歴史のある名家
に生まれた智佳子が唯一、一般人らしい生活をしたのは、あの子供の頃…緑川町で
母親と暮らした僅か一年足らずの間だけだ。


 大きな駅の、大勢の人々が行き交う姿をながめながら、智佳子は見る物聞くもの
全てが新鮮に映り、あちこちの土産物や良い匂いのするお店を覗いては足を止めて
見ていた。

 とりわけ智佳子が興味を惹かれたのが、ジャンクフードを取り扱うお店から漂う
匂いだ。パンの焼ける匂い、ポテトを油で揚げた匂い、チーズの香ばしい匂いなど
、家のお屋敷にいたら普段口にすることなどまるで無い食品たち。

 智佳子はそのお店からバーガーを一つと、チーズのかかったポテト、そしてスト
ロー付きのコーラを一つ購入した。

 目的の駅までの電車が来るにはまだ時間がある。
智佳子は駅ホールの隅にあるベンチに腰を下ろして、購入したばかりのバーガーを
食べ始めた。歩きながら食べる人もあるが、ロングのスカートを穿いた彼女はきち
んと両足を揃え、行儀よく両手でバーガーをほうばる。

 三十を越した智佳子だが、そのあどけなさの残る容姿と、背の低さに実年齢より
も十歳は若く見えた。近くを通り過ぎる女子高生らも、智佳子とその服装を見ては
「可愛い」と口にしてゆく。そういうのはもう慣れっこになっている智佳子だった
が、自分よりも年齢の低い子達にそう思われる事にはコンプレックスもある。


 駅構内を行き交う人々の顔を一人一人眺めながら、智佳子は茶封筒を送ってきた
人物とは何者だろう?と考えていた。

 自分はこの国においても有数の名家の当主であるが、世間一般にはまったくと
言ってよいほど知られてはいない。江戸中期から歴史の影に隠れ、代々家を一族が
守ってきたのである。当然、智佳子本人の事も、世間の人々が知る事など有り得な
いし、あの恐ろしい事件の記事にも、自分の名前も写真も一切掲載されてはいない
のだ。

 警察には当時の事件のデータが残っているとは思うが、毎年護身術の指導など
南条家との関係は良好で、おかしな物を送ってきたりはしない筈。自衛隊やその他
の組織も同じく、国の機関にとって南条家は重要な存在なのだ。

 なら、一体誰が?何の目的であの封筒を自分のところに送ってきたのか?
子供の頃、僅かな時間だけ過ごした山と二つの川に挟まれた緑川町…。あの事件は
もう誰にも知られる事なく終わりを告げた筈なのだ。


 それとも、終わってはいないのだろうか…?


 ベンチに腰を掛けていた智佳子は、急に数年前に分かれたままの仲間たちの事が
気になり、携帯の番号を調べる。何人かの番号はすでに使われてはおらず、唯一人
だけ同じ番号を使っていた仲間の一人に繋がった。

『…はい、どちらさん?』
「あっ…和美さん?私よ、智佳子!」
『…えっ、チコ?嘘でしょ?ほんとに!?久しぶりねー!元気?』

 耳元に聞こえてきた落ち着いた美しい声の主は、大林和美。
あの緑川町で一緒に遊んだ同級生仲間の一人である。もちろん数年前の事件も一緒
だった智佳子の親友だ。噂では彼女は数年前に結婚したそうで、お互い忙しい日々
もあり、会う事もなくいつの間にか数年が過ぎていた。

 彼女のとりとめもない話を聞いていて、和美にはあの奇妙な茶封筒が届いている
様子や、何か困った出来事などはみじんも感じられないと智佳子は思った。現在は
小さな子供の世話で大忙しなのだそうだ。

「あの、和美さん。他の人たちは今どうしてるか知ってる?」

『…さあ、どうだろ?大樹はあれ以来、連絡もしてないし会ってもいないし、結子
と裕君はどこだかの島で一緒に暮らしているそうよ?ラブラブ過ぎて完全に二人の
世界に入っちゃったのね!ところでチコ、今日はどうしたの?何か用事でもあった
の?』
「あ…ううん、用ってほどの事もないの。ごめんね、忙しいとこ…またね!」

 
 携帯の通話を切った智佳子は、親友たちのところに例の茶封筒が届いていない事
にほっとする。昔の親友たちが結婚したり恋人同士幸せでいるという事は智佳子に
も嬉しい事だったが、どこか自分だけ一人取り残されたような悲しい部分とがある
ことに戸惑いながら、ベンチから立ち上がり改札口へと歩き出した。


 自動改札のところで切符を入れる場所が分からなかった智佳子は、傍にいたお婆
さんに教えてもらい駅のホームへと出る。栃木県日光市へ向かう電車に乗るためで
あるが、目的地の緑川町はそのさらに先にある。 

 長いホームを見回すと、先ほど駅の構内で自分を見てひそひそと話をしていた女
子校生たちが、楽しげな笑い声で電車が来るのを待っていた。他にも先ほど親切に
智佳子に自動改札の抜け方を教えてくれたお婆さんもいて、カバンの中をいじりな
がら何かを探している。


 ぼんやりと電車を待つ間、智佳子はどこか自分は異世界の住人なのではないか?
という感覚に陥っていたのだ。  

 確かに数百人からの一族を率いる家を代々守る仕事は大事だとは思っているが、
来る日も稽古と作法に明け暮れる毎日が、自分のために、人のためになっているの
だろうか?

 普段付き合いのある上流階級層やら政治家、宗教の重鎮から陰陽道の連中に至る
まで、彼らのような者たちのためにだけ自分の能力や労力を注ぐことが本当に大事
な事なのか?


 その時、ホームの向こうから電車のライトの明かりが見え、どんどんこちらに近
ずいてくると駅のアナウンスで黄色の線から内側には入らないよう説明している。
と、先ほどのお婆さんがカバンの中から小銭をいくつか落とし、慌てて前屈みにな
って拾おうとした。

 

           ”あぶないー!?”

 

 瞬間、智佳子はお婆さんがホームから落ちると感じた。
案の定、短い悲鳴と共にお婆さんは足を踏み外しホームの下に落下した。

 電車が近ずくホームに女子高生らの悲鳴が響き騒然となるー


 素早く動けたのは智佳子一人だった。
彼女は自動販売機の横に置かれてあった掃除用の長いモップを手にすると、線路に
倒れているお婆さんの上着の隙間にモップを差し込み、ぐるぐると捩じる。そして
テコの原理を利用して、ホームに斜めに立てかけられたモップの先端におもいきり
自分の体重をかけ、倒れているお婆さんの身体ごと線路から跳ね上げたのである。

 

 

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「…どいてっ!!」

 立ち尽くす女子高生たちに声をかけながら智佳子はホームの宙を舞った小さな
老人の身体をキャッチすると、くるくると回りながら受け身を取り勢いを殺した。
その瞬間、ホームに入ってきた電車がモップの棒を粉々に砕き急ブレーキをかけて
停止したのである。

 ホームの冷たい床にお婆さんと転がりながら、智佳子はたった今まで老人が倒れ
ていた場所に電車がいる事にぞっとする…。

 まさに間一髪、とはこの事だった。
線路に降りてお婆さんを助けている時間は無いと、瞬間的に判断出来たのは智佳子
だからであって、おまけに棒の扱いに長けている彼女だからこそ上手くいった救出
方法である。お婆さんはホームに転がった時に少々擦り傷が出来ていたが、それ以
外は怪我らしい怪我も無かった。

 

「大丈夫ですか?」

 お婆さんは驚きのあまり声は出なかったが、何度も首を縦に振り大きく頭を下げ
智佳子に感謝を示す。智佳子はお婆さんの身体を後ろから抱きしめた形で仰向けに
横になり、一つだけ安堵の息を吐き出す。


 その智佳子の見事な救出に、いつの間にか集まってきた大勢の人だかりの中から
小さな拍手が起こりはじめ、やがて駅のホーム内は大きな拍手に包まれた。

 

 

 


 ホテルの薄暗い車庫から博士が部屋へと戻ってきた時、すでに秘書らは目を覚ま
していた。もちろん、ベッドからはまだ起き上がる事も無く、ごろごろとしている
状態である。

 時刻は十一時を回ったところで、そろそろこのホテルを出てゆく時間が迫って
いた。四時間ほどではあるが、彼女らはぐっすりと眠ることが出来たようである。

「博士、何してたの?」
「長旅のための工作だよ。さて、起きてくれ。すぐに出発するよ。」

 その言葉を受けて、一番最初に起き上がり着替えを始めたのは刑事の涼子だ。
もともと真面目な性格もあるが、いちおう男の博士がいる場所でいつまでもラフな
姿でいるわけにもいかないと思ったのだが、スーツの上着を着ようとしたところで
博士に止められた。

「おっと、涼子君、君が着るのはそれじゃない。これを着たまえ。」

 ベッドの上に博士が投げてよこしたのは、なんと制服のセットであった。
それも今時の女子高生が着るようなものである…。 

「な、何で私がこんなもの着なくちゃならないのよ!?ていうか、どこからこんな
物出したの?」
「衣装棚に沢山あったんだよ、ほら。」

 そう言って博士は壁に取り付けられた衣装棚を開けると、セーラー服やら様々な
職種の制服が並んでかけられてあった。これらはもちろん、ラブホテルを利用する
カップルらが着て楽しむものである。

「あはは、涼子ちゃん似会うんじゃない?これ。」

 光は楽しそうに制服を掴むと、涼子の身体にぴたりと合わせながら言った。
秘書や須永理事長も、それを見ながら他人事のように笑っている。

「いや、涼子君だけじゃない、真理さん以外全員これと同じ物を着て行くんだ。」
「ええーーっ!?何でよ!?」

 博士の信じられない提案に、五人の女性陣は驚きの表情を浮かべた。
秘書や涼子などはまだ歳も若いが、光や須永理事長は「四十」を過ぎた女性なので
ある…。 

「えっ…探偵さん、これ、私くしも着るんですの?」
「当然だね。」

 一人だけ制服を着なくてもよいと言われた真理は、しばらく皆の驚きの表情を見
つめていたが、急に何かに気がついたように博士に言った。

「分かったわ、変装ね?だからドライバーの私だけ違うんだ。」
「そう、さすが真理君。君は教師で運転手なんだ。」

 他の面々も真理の変装という言葉で、おおよその事は理解できたのだが、いかん
せん二名ほど年齢が行きすぎていて、女子高生というのには無理がある…。

「女子高生って……私らの場合”熟女教師”のJKよ!?」

 光の渾身の自虐ネタに笑う女性陣とは対照的に、博士はいたって真面目な表情で
説明する。

「とにかく、君らはこれに着替えて旅に出てもらう事になる。あっ、ちなみに化粧
はしないように。厚化粧の女子高生がいたら怪しいだろう?それと光さんは、その
金髪かつらは外して行ってくれ。君の金髪緑目は、我々の特徴の一つだから。」
「えっ?光さんの金髪ってかつらなの?」

 秘書が驚いて光の方を見ると、彼女は少し照れくさそうに金髪のかつらを外す。
と、そのかつらよりは少しだけ短めの茶色の髪の毛が出てきた。

「そうよ。ある時期まで火傷のせいで髪の毛が伸びなかったからね。それと別人に
変身する意味でも金髪のかつらを使っていたの。でも、今は髪の毛も普通に伸びた
から…問題はないわ。」

「でも博士、そんな変装だけで長いドライブ大丈夫かしら?」
「うん、だから車にも工作をしておいた。ちょっと車庫へ来てくれ。」


 皆を薄暗い車庫へと案内した博士は、女性陣が寝ている間に改装したワゴンを
見せる。改装といっても表面的なものだが、敵をあざむくためには効果があると
博士が考えたものだった。

「見てくれ、これならどこかで敵に遭遇しても、俺たちだと気ずかれることはない
筈だ。」

 車の横側には、黒マジックの太字で大きく書かれた「清感高等学校バトミントン
部」とある。

 

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「ちょ…私の車にー」
「どうせ外側ぼろぼろだったじゃない?後で塗り替えればいいだけよ。」
「清感……って、きよく感じるって事ですの?」

「そう、君たちはここから例の町へ到着するまでの間、この清感高等学校バトミン
トン部の生徒だ。真理さんはその教師…さあ、理解出来たらば急いで着替えて出発
だ。」


 いきなりの博士の提案による旅支度に、五人の女性陣はそれぞれあーでもない、
こーでもないと博士に意見しながらも自分のユニホームに着替え始めた。

「あの…探偵さん、これどう見てもエロ教師のスタイルじゃない?」
「まあ、そうだ。あ、真理君だけ化粧は濃いめにね。」

 真理の服装は、黒いミニスカートに白いワイシャツ姿、そのワイシャツの胸元は
大きく開いている。アイテムとして黒縁の眼鏡付きである。彼女は運転が出来ると
いう事で、喜んで教師役を引き受けた。

「ちょっと、こんな短いスカートなんだからスパッツとかないの?」

 着替え終わり、鏡の前で服の位置を確認しながら涼子が言った。
ぶつぶつと文句を言う割には、まんざらでもなさそうに制服を着こなしている。

「そんなものは無い!」

「………つまり、見せろってことね…最低。
「こんなことでほんとに逃げ切れるのかしら。無理じゃない?」
「て、いうかこれ、完全に博士の趣味だよね?趣味。」
「あ、スカートのジッパー壊れてる。」
「お化粧しないで外に出るなんて…裸見られるより恥ずかしいんですけど…。」

「…うるさい!文句つけると、さっきの可愛いすっぴん寝顔を人に見せるぞ!?」
「きゃあぁーっ!」

 博士の脅迫まがいの怒声に、五人の女性陣は可愛らしい声を出しながら楽しげに
車に乗り込んだ。
 

 

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 ホテルを離れた真理の運転するワゴンは、栃木県日光市へと向けて国道145号
線を通り、群馬県沼田市を通過してゆく国道120号線、いわゆる日本ロマンチッ
ク街道を横断する事になるのである。

 日本ではおなじみの観光地軽井沢から、こちらも有名な日光へと至る全長300
キロの観光ルートだ。その途中の沿線も美しい景色や観光スポットが満載のドライ
ブ街道であり、観光バスなどのツアーも度々行われている。


 その観光ルートを、博士は目的地である緑川町までの脱出ルートにしたのだ。
もちろんそれには理由がある。高速道路や電車などの公共機関を使えば、短時間で
目的の場所へと向かう事が出来るだろう。しかし、謎の組織に自分たちの存在が知
られている以上、それらを利用すれば見つかるのは時間の問題なのだ。

 そこで時間はかかるが、最も安全と思えるのが県道、あるいは国道を利用して
目的地へと入る事だった。もちろん、そこにも敵側が罠を仕掛けている可能性も
無くはない。しかし、高速や駅などの公共機関に比べれば遥かに危険は少ないと
考えられる。ましてや、変装し別人を装い旅をしながら目的地へと向かえば更に
危険を回避することが出来るかも知れない。

 それも、出来るだけ自然に陽気に楽しく。
それが博士が寝ずに考えた、緑川町までの脱出作戦の全てである。


「…敵さんも、いい歳をした私らがまさか”部活動の遠征に扮して”逃げてるとは
思わないでしょうね?」

 地毛である茶色の髪に黒い瞳のカラーコンタクトを付け、制服に身を包んだ光が
コンパクトを覗きながらアイシャドーを塗っていた。もちろん博士に言われた通り
色の薄いものではあるが、これには当然オルゴン液が混ざっている。

「ま、ホテルの主には現金たくさん渡してきたんだから…問題ないでしょ?」
「…そういう問題かしら?飲酒に、窃盗…自分が刑事だってこと忘れちゃいそうだ
わ。」
「涼子さん、その割には嬉しそうに着替えてたじゃない?」

 秘書が隣に座る涼子を、あちこちくすぐりながらちゃちゃを入れる。
これらの制服は全てラブホテルから拝借してきたものだった。部屋の棚に並んでい
たものから博士がチョイスしたのは、Yシャツにスカートという春用のスタイルだ
が、着こなし方はそれぞれに違いがある。

 長身の光は襟のボタンをはずしているし、秘書は一人Yシャツの上に黒いカーデ
ィガンを着こんでいる。だが、なんと言っても違和感があるのは最年長の須永理事
長だ。本人はまんざらでもなさそうだが、如何せん女子高生にしてはゴージャスな
雰囲気を醸し出しすぎている…。

「…その腕時計はちょっとまずいなぁ。高校生にしては何か高級過ぎる。」

 須永理事長の豪華な腕時計を指して博士が言った。
何かは知らないが、きらびやかな宝石で固められたごつい腕時計である。

「あ、これですの?カルティエ社のファビュラス・ベスティエールですの。お値段
時価数千万ー」

 テレながら自慢する理事長の腕から、博士は無言で時計を外し後部座席へと放り
投げる。おまけに首の黄金のネックレスも同様に外してしまった。

「…あ、あの、ブラジャーも宝石入りのブランド高級下着なんですけど…?」
「それは見えないからいいです。」
「まったく…あきれ返るほどの高級志向ね、良美ちゃん。」

 まだ何か自慢の品を披露していた須永理事長だったが、誰も聞いていなかった。

 

 

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「博士、この先に何か面白い場所ある?観光ルートなんでしょ?」
「そういえば、どこかでお昼も食べないといけないわね。」

 ロマンチック街道をゆくワゴンの外の景色を見ながら秘書が尋ねる。
現在は群馬県沼田市街を目指して145号線を走っていた。確かに沿線は美しい緑
が続いている。

「ふむ、もう少し先だが、東洋のナイアガラと呼ばれる吹割りの滝という場所があ
るな。ここでお昼にしよう。真理君、そこまで行けるかな?」
「大丈夫。知ってるわ。120号線に入るのよね?」


 と、これまで一台もすれ違う車も無かった山道に、ワゴンの背後から一台の黒い
ランドクルーザーが見えた。それは見る見るうちにワゴンに近ずいてくると、すぐ
真後ろへとやって来た。

 他に誰もいない山道は、敵がこちらを襲うのにはかっこうの場所である。

「真理…!気をつけてー」

 光の言葉に、一瞬車内に緊張が走る。
皆は背後の車を振り向き、光はクルーザーの中を覗き込むように凝視した。
背後の車には運転席にしか人は乗っていないように見える。

 が、黒いランドクルーザーは直線でワゴンを追い抜くと、あっという間に前を走
り去っていった。

「何だ、ただの走り屋ね。びっくりした!」
「ね、ね、博士。その滝って美味しいものある?」

 車内の面々は安堵のため息を漏らし、そしてすぐに表情がほころぶ。
ここまでの道のりで、この奇抜な脱出作戦は上手くいくのではないか?と、皆は考
え始めていた。博士の考えた車の工作と、自分たちの変装で敵を撒くことが出来る
…と。


 だが、予想に反してその作戦は、たった一つのミスから崩れる事になる。


(続く…)