ザ・怪奇ブログ

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水面の彼方に 13話

 

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            13  作戦行動前夜…


 その夜遅く自分の研究室に籠っていた杏は、地下基地内の様子がいつもとは少し
だけ違っている気がして部屋の外を覗き見た。時刻は二十二時を回っていて、普段
はこの時刻になると基地内はいたって静かなものだが、今晩は大勢の兵たちが動き
回っていてなんだか慌ただしい。

                                       ”何か起きたのかしら?”

 広い廊下を武装した兵士たちが重い荷物を持って、どこかへと運んでゆく。
こんな夜遅くに何かの作戦行動でも行われるのだろうか?

 自分の部屋に戻りドアを閉め、考えを巡らせる杏の頭に思い当たる事があった。
例の計画は予定通りならば七日後の早朝の筈だが、もしかしたらその予定が早まっ
たのだろうか?その可能性はある。思った以上に内部の反対派の活動が露呈してし
まったために、上の連中が計画を早期に実行してしまおうと考えるのもあり得るか
らだ。

 あるいは、彼ら…探偵たちの素性が知れ、兵たちを送り込もうとしているのだろ
うか?いや、その心配はこの件に彼らを巻き込ませた時から、遅かれ早かれ二人や
あの大学に関わる人たちの素性がこの基地の連中に知れると杏は想定していた。
だが、仮にそうだとしても、今晩というのはあまりにも早すぎる…。これではいく
ら賢い彼らでも、恐らく対応のしようがない、と杏は思った。あの家で一体どうや
って暗殺部隊の目を逃れ雲隠れ出来たのかは知らないが、ラッキーがそんなに続く
とは思えない。


 ドアに背を預けて、杏は自分の額を手で叩く。
どうしてこんなに上手くいかないんだろう?自身が想定していたことが全て別の方
へと向かってゆく…もちろん、杏の計画は一つではなかったが、それらはあくまで
も”最後の手段”なのである。


 もう一度だけ杏は外の様子を見るため、自動販売機へと飲み物を買いに出た。
白衣のポケットに両手を入れ、二ブロック先の休憩室へと歩いてゆく。その時、
正面の通路から見覚えのある男がやってきた。この基地の司令官補佐の肩書を持っ
ている、背が異様に高い白石という男である。

「こんばんわ、入江博士。こんな時間に散歩でありますか?」
「ああ…ちょっと缶コーヒーを…。」

 白石という男はやけに機嫌の良さそうな表情で杏に挨拶してきた。
普段この男はいつも無表情で、愛想のかけらも無い男であったが、今晩は気味が悪
いくらいに生き生きとしている。

 杏はこの男が生理的に嫌いだった。
無表情で愛想の無さは言うに及ばずだったが、何より好きになれない理由がこの男
にはあるのである。

「…この騒ぎは何ですか?何かあるの?」
「ええ、実は上からの指示で今晩、急きょ例の計画を実行することになったんです
よ。私が指揮を取ってね!」

 その男の言葉に杏は一瞬だけ目を見開き、男のにやついた顔を見つめた。
例の計画が実行される?それも今晩に…である。でも、基地司令官ではなく、一体
何故この男が…?

「ちょっと…嘘でしょ?だってあと七日後だって聞いてるわよ?まだ分析だって
終わってないし、今は危険すぎるわ!」
「ええ、そうでしょうね。危険は承知で私はこの作戦を受けたのですから。上も
一刻も早くあれを手に入れれば、全ての機関、世界各国の中で我が組織が経済的に
も軍事的にもイニシアチブを取ることも出来ると期待しているんでしょう。」

 普段寡黙なこの男が、ここまで意気揚々と語るのも奇妙だったが、むしろ杏に
は、基地司令官を差し置いてこの補佐官が計画の実行を任せられた事の方に興味
を持ったのだ。

 そして、もう一つ言うならば杏はこの不気味な男を、ずいぶん前から知っている
のである。

「…でも、司令官は?彼は一体どうしたんです?」
「彼は数時間前、単身で二人の探偵がいる場所へ向かいましたが、それ以来まった
く連絡も通信もありません。何らかのトラブルか、あるいは……まあ、上の連中も
慎重派の彼に任せるのは良く思ってはいないのでしょうな。」

 そこまで言って、白石という男は口を閉ざす。
だが、にやけた笑みは隠すことが出来ないようだった。

「なんだか嬉しそうね?」
「ええ、私にも出世欲はありますから。博士にしても同じでしょう?だからこんな
ところで研究を続けているのでしょうから。」
「…まあね。」

 それだけ言うと、背の高い男は基地の奥へと早足で立ち去っていった。
杏は踵を返すと、販売機のある休憩室ではなく自分の研究室へと戻っていく。

 恐れていた事態ではあるが、杏には想定もしていた事である。
二人の探偵や基地司令官の情報が無いという状況は不安だったが、杏は別の作戦を
実行する必要があると思い始めていた。


 それはまさに杏にとっての、文字通り「最終手段」でもあったが…。

 

 

 

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 基地司令官の弘毅が意識を取り戻したのは随分前のことだったが、彼はしばらく
目をつむりじっと黙って、隣の部屋と思われる場所から聞こえてくる話し声に耳を
傾けていた。どのみち、身体の自由は何かで縛られていて、動くことも動かすこと
も出来なかったのであるが。弘毅の耳の中には、小型の高性能補聴器のような物が
ついていた。

 彼らの会話から聞き取れたのは、いくつかの事である。
まず重要なのは、彼らはこの事件に巻き込まれてしまったのであって、元々事件の
中核である反乱分子ではない、という事である。

 そして、事件に巻き込まれた原因となったのが、彼らのところに送られてきたと
いう茶封筒だ。これはおそらく反乱分子の誰か、が彼らに送り付けたものだろう。
例の計画を延期か、あるいは中止させようという反乱分子の活動と思われるが…

 彼らの会話の中でも興味深いのは、茶封筒を送り付けてきた人物が女である、と
いう事だ。これは弘毅にとっては意外な感じがした。


 部屋の中は明かり一つなく、自分が冷たい床の上に転がされている状態に弘毅は
声を出さずに笑った。こんなことは長いキャリアの中で一度も無かった事である。

 まさか自分がここまであっさりと倒され、身柄を拘束されるとは夢にも思わなか
ったが、おそらく任務に失敗したうえに捕まったともなれば、自分は間違いなく
お払い箱になるだろう、と弘毅は思った。連中は外部の者に素性が知れた仲間を
けして生かしてはおかない。我々はそれほどの秘密に関わっているのだから…。

 しかも、倒された相手というのが入浴中の丸腰の若いお姉ちゃん達なのだから、
これが笑わずにいられるかという気分だった。


 それにしても…奇妙なことがある。
あれほどのダメージと深手を負ったにも関わらず、今この場で倒れている自分の
身体にほとんど痛みが無いという事だ。むしろ痛みが引いてゆくような…心地良
ささえ感じる。


 と、しばらく暗闇の中を見つめていた弘毅は徐々に目が慣れてきて、ぼんやりと
室内の様子が分かってきた。ここはおそらく倉庫のような部屋であろうと思われ、
積み上げられた箱のようなシルエットが見える。そして、それらに交じり人の影の
ような物がいくつか並んでいるのがうっすらと見え、それが何かの彫像だという事
に気が付いた。

 だが、弘毅が驚いたのは人型の彫像ではなく、ほんの目の前の暗がりに人の気配
があると気がついたからだった。そいつは、弘毅の顔からほんの十数センチほど先
に音も立てずに、膝を抱えてしゃがみ込んでいたのだ。レンジャー部隊として訓練
を積んできた弘毅に気配も悟られずに傍に佇んでいたのである。

 そいつが耳元に囁いてきた。

「…あなた、ずっと前から起きて話を聞いていたわね…?」
「…ずっと見張っていたのか?趣味が悪いな。」
「ええ、だって私、魔女ですから…。」

 

 

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 暗闇でしゃがみ込んでいた光は、そう言って笑う。
弘毅は徐々に部屋の闇にも慣れてきて、ほんの目の前にしゃがむ金髪の女性を見上
げた。彼女の両目は先ほどのように輝きを放ってはいなかったが、その双眼には何
か奇妙な力のようなものを感じる…間宮薫という女が魔女だという話は、本当なの
かも知れないと弘毅は思った。

「…俺を殺せ。でなければ、この先お前の仲間たちが危険に晒される事になる…。
あんたなら分かるだろ?」

 弘毅がかすれるような声で呟くと、光はしゃがんだまま両手で頬杖をつきながら
ため息を一つ吐き出す。そして更に近ずくと、光は自分の髪の毛で男の顔を隠すよ
うにして至近距離で囁くように小さな声で言った。

「そう思ったんだけど…眠ってる間、あなた妹さん?の名前を何度も口にしてた。
ヤル気が失せたわ。拷問くらいで口を割る人にも思えないし…たぶんかなり位の高
い軍人でしょ?あなた。」

 弘毅の目の前には彼女の大きな両目があり、何か瞳が奇妙な収縮を繰り返してい
た。瞳が小さくなり…そう、明るい場所にいる蛇や猫のような線のような瞳になり
つつある。弘毅にはそれが人の目なのか?という疑問が湧いたが、すぐに元の丸い
瞳に戻った。

「それに、あなたみたいな組織は、敵方に捕まった者なんか生かしてはおかないで
しょう?あんただってどこかに雲隠れするしかないでしょうし。わざわざ手を下す
必要も無いって訳よ。それとも…さっきよりも痛い目に遭いたいの?」

 光は暗闇でしゃがんだまま、弘毅の顎を片手で掴み口元に囁くと、彼女の生暖か
い息を吹き込まれた。随分女っ気の無い生活を送っていた弘毅には、その女くさい
甘い刺激にくらくらときたが、それには奇妙な現象が含まれていたのだ。

 随分痛みは引いていたが、まだあちこち身体の痛みは残っていた。
それが彼女の吹き付ける息によって和らぐような気がする…。

「…あんた、何かしたか?」
「おまじないよ。おまじない。」

 すると暗闇の部屋に明かりが射した。
ドアが開いて隣の部屋の明かりが漏れたのだろう、誰かがこちらにやってくる。

「…光さん、準備が出来たそうよ?そろそろ…」
「OK。」

 すでに着替えを済ませた秘書が、暗がりにしゃがみ込んでいる光に声をかけた。
そして縛られ転がっている男の姿をちらりと覗き見ると、大怪我を負った筈の男の
傷はほとんど治っているように見える。恐らく光さんが応急処置のようなものを施
したのだろうと、秘書は思った。 
 
 風呂での立場とは完全に逆の状態になっていて、今は襲撃者である弘毅の方が身
ぐるみ剥がされ縛り付けられているのである。

「四十年生きてきて、入浴中に縛られるとか初めての経験で驚いたけど…お別れ
ね。ここを知られた以上じっとしてはいられないわ。私たちはこれからすぐにここ
を立つ。あなたはここの守衛に、後でどこかの山林に置き去りにさせていただく 
わね。あなたくらいの軍人なら、手ぶらでも一人で逃げられるでしょ?」

「…俺は逃げない、仲間のところに戻る。」
「馬鹿言いなさいな、戻れば間違いなくあなた殺されるわよ?」
「光さん、もう行かなきゃ…」

 秘書に言われ、光はもうそれ以上は何も言わず暗い倉庫を立ち去ろうとする。
その二人の後ろ姿に弘毅は声をかけた。

「…一つだけ、情報を教えてやろう。」

 光と秘書は部屋を出る瞬間、お互い顔を見合わせ声のする背後の闇を振り返る。
男の姿はほとんど闇の中に溶け込んでいてよく見えない…。

「…我々はここ二・三日の間、ある作戦行動のために大部分の兵を投入する事にな
る。お前たちが逃げるならその間しかない。だが、森の外にはすでに監視の者たち
がいると思った方がいい。俺から言えるのはこれだけだ。」

 突然の男の情報に二人は一体全体、信じていいのかどうか?判断のしようがなか
ったが、まるで嘘だとも思えなかった。

「あら…どうしてそんな貴重な情報を私たちにくれるのかしら?」
「……風呂では久しぶりに、良いものを見せてもらったから、な。俺もいちようは
男なんでね。」

「……………。」

 光と秘書の二人は、一瞬だけ表情が固まり心なしかその両足をキュッと閉じる。
そして暗闇から聞こえる男の笑い声を背に受けて倉庫を出て行く。 


「……光さん、やっぱり戻って殺す?」

 秘書の冗談に光は、振り向くこともせずに笑った。
そして、わずかに表情を曇らせ瞳だけ背後の倉庫をちらりと見やりぼそりと呟く。

「どのみち、もう会うことも無いでしょ。」

 

 

 


 いまだ大学内の停電は復旧しておらず、蝋燭やランタンなどの僅かな明かりだけ
の心もとない状態だったが、原因の究明はことのほか早く解明された。大学内に送
る電力ケーブルが切断されており、早くとも明日の朝にならなければ復旧は難しい
という事だった。

 だが、問題なのは電力の復旧ではなく、ここに博士らが潜伏している事が謎の敵
に知られてしまった事である。理事長の自慢のテルマエで秘書や光に倒された武装
男は、謎の敵から送り込まれた暗殺者であろう。もし、男が仲間に連絡なり出来ず
戻らなければ、いずれまたこの大学に何者かを送り込んでくる事は間違いない。

 そう、今すぐにも…敵は大学の外に大勢待機しているかも知れないのだ。
のんびりとそれを待っている時間は、博士らには無いように思えたのである。


 秘書と光が戻るのを待つ間、博士と涼子の二人は理事長室の窓から外の暗い森を
眺めていた。市街地までは数キロも森が続いているこの土地には、電気の明かりや
街灯の一つもない。しかもこの大学へ来る道は、一つしかないのである。

 逆にいうならば、脱出するための道も一つしかない、という事だ。

「何か見えるかい?」
「いいえ…明かり一つ見えないわ。」

 すでにいつものスーツに着替えをすませている涼子は、外の暗い森を眺めながら
自分の手首をさすった。まだビニールテープの痕が浮き出ていて痛々しい。

 涼子はつい今しがた捕えた襲撃者の処遇をどうするか?刑事としての判断に困っ
ていた。普通の事件ならば、もよりの警察に連絡を入れ彼を逮捕するのが正解であ
る。だが…今回の事件にも何か得体の知れない”匂い”が涼子には感じられた。
通報してやって来る警官たちが、必ずしも自分たちの味方であるとはかぎらないの
ではないか?ここに刺客を送ってきたという事は、謎の敵は自分たちの個人情報を
入手出来る立場にいる連中だといえる。襲撃者が間宮薫の名前を知っていた事から
も、それは明らかだ。

 あの河川敷の奇妙な遺体現場にいたという二人の”監視員”の事も考えると…
何かこの事件の背後には奇妙な連中がいるのは確かである。

 だとすれば、ここは博士の判断した通りに通報するのは避けて、すぐにここから
逃げ出すのが正解なのではないかと思った。だが…


「…問題は、どうやってここから逃げ出すか?だな。」

 博士は不安そうな表情の涼子を横目に見ながら、テーブルに地図を広げる。
涼子の顔色は、長時間風呂にいたために頬は赤く染まり、おまけに今は化粧も無く
すっぴんだった。それは他の女性陣にしても一緒で、メイクをしている暇もなかっ
たのである。

「そうね、それが問題ね。ここは深い森の中、町へ抜ける道は数キロもある一本道
のみ、ですから…途中で何者に襲われるか分かったものじゃない。」


 そこへ大学内の様子を見回りに行っていた真理と須永理事長が戻ってきた。
停電による寮生らの混乱は、すでに夜も遅いためにほとんど無かったが、武装した
男が侵入した事は誰にも知らせてはいない。

「あら、薫ちゃんたちまだ戻ってないのね?車の準備は整いましたわ。いつでも
出発できますよ。」

 博士や秘書、そしてその正体が敵にばれてしまっている光に刑事の涼子。
直ちにここを離れ、さらなる敵の襲撃を避けなければ今度こそ命は無いだろう…。


 襲撃者を見張る光と、それを迎えにいった秘書が戻るのを待つ間、理事長室に残
った者たちは薄明かりの中で重苦しい沈黙に包まれていた。そんな中でも特に表情
が硬いのが真理だったが、彼女も涼子と同じく風呂あがりのすっぴんで、ほとんど
旅支度らしい服装では無かった。

「…真理さん、君は支度しなくていいのかい?」
「私は…だって仕事もあるし…理事長と大学に残るわ。」

 そう言うと真理は皆と少し距離を取ってソファーに座る。
須永理事長は離れた場所から真理の硬い表情を見つめ、心配そうな表情を浮かべた。
 

 そこへ光と秘書が慌ただしく戻ってきた。

「あっ、薫ちゃん、車の準備出来てるわ。」
「いや、車は使わない。」

 急ぎ足でやって来た光は、ちょうどテーブルで地図を広げている博士のところへ
向かう。

「市街地へ向かう一本道を車で行くのは危険すぎるわ。敵は、私たちがここに潜伏
している事をすでに知っているの。町へ出る前に必ず捕まえられる…」
「でも、市街地までの道は一つしかないんでしょ?」

 涼子は地図を見つめる光に言った。
光はポケットから取り出した眼鏡をかけながら、地図上に指を這わせて説明する。

「この大学の地下には昔の廃坑道があちこちに広がってるの。秘密の実験施設は埋
めたてられたけど、こちらはまだ残ってるわ。これを使って市街地とは反対方向の
森を抜けるのよ。いくつかけもの道を知ってる、夜のうちに森を抜けられるわ。」
「なるほど、あの地下の廃坑道か。」

 地下の廃坑道を通り、夜のうちに山林を徒歩で抜けるという光の仰天プランに、
涼子は難色を示す。そんな回りくどいことをしなくとも、今のうちに車で一本道を
突っきり、市街地へと入ってしまえば済む話じゃない?と。

「今のうちなら、車でかっ飛ばした方が良くない?前にもそうやって逃げ出せたん
でしょ?」

 少しばかり慎重すぎるんじゃない?とばかりに涼子が光の意見に意を唱える。
だが、意外にも光はいつものふざけた様子を微塵も感じさせず、緊張の面持ちで若
い女刑事に言った。

 

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「いや、それは無理ね。いい?敵は私たちが潜伏しているのがこの大学と知ってて
あえて一人の刺客を送り込んできたのよ?当然、市街地の入口には敵が待機してい
るはず…敵だってなるべく騒ぎを起こしたくはないでしょうから。こんな逃げ場の
ない僻地から、私らがいずれ逃げ出して来るのを待ってるはずよ。それに…」

 そこで一度話を切った光は、理事長室の大きな窓際に立つ博士と秘書の傍へとや
って来てちらりと外の暗闇を覗き見る。先ほど倉庫で襲撃者の男が言っていた事が
本当だとすれば、この森の外に男の連絡を待つ仲間がいるはず…だが、暗闇の向こ
うには街明かりすら見えなかった。

「…今度の相手は、たぶん何らかの軍隊に所属している連中だわ。これまでの殺し
屋とか狂信者なんかとは違う、正規の訓練を積んだ連中よ。私たちの正体を知って
いながら、たった一人で乗り込んできたのを見るとあの男はレンジャー部隊ね。
銃も使わずほとんど素手で勝負してきた…何度もラッキーが通用する相手ではない
わね。戦いはできるだけ避けるべきよ。」

 倉庫に縛られている襲撃者の男…ここへ来る前に病気の妹を亡くしたというあの
男は、すでに心が折れていたようだった。油断していた自分たちは、本気で襲いか
かられていたなら命が無かったかもしれない、と光は思った。


「それにしても…なぜ私たちがそんな連中に命まで狙われなければならないの?
この事件の何が、それほど重大なのよ?」

 涼子は部屋の誰にともなく言った。
その質問に、にわかに答えられる者はいなかったが、しばらく間を置いて博士がぼ
そりと呟くように言った。

「今は何が…とは言えないが、おそらくそれに答えられるのは茶封筒の送り主しか
いないだろうね。彼女に会うしか、この事件の謎を全て解き明かす事は出来ないと
思ってる。」


 その時、理事長室の入口のドアが開いた。
静かに部屋に入ってきたのは、なんと博士らもよく知っている人物で、彼は上品な
笑みを浮かべて小さく会釈しながら言った。

「皆様、お久しぶりでございます。良美様、あの男を連れた守衛が只今出発いたし
ました。」
「ご苦労様。」

 須永理事長に耳打ちするように報告する初老の男性は、数年前モラヴィア館で見
たのが最後だった白川という名の執事である。

「あんた生きてたのか。」
「はい、私だって死にたくはありませんから。」

 驚きの表情を浮かべる博士に答えて、初老の男は笑いながら言った。
巨大財閥の下柳清五郎の執事として長年働いてきた初老の男は、あの事件以降、世
の中から完全に姿を消していた。

 それというのも、この執事は下柳会長の悪事を暴露した張本人であり、抜け目の
ない人物であることは間違いない。その奇妙な男を、須永理事長が彼の所在を突き
とめ自分の執事としてスカウトしていたのである。


「…良美様の言う通り、大学は明日から一週間ほど閉鎖いたします。理由は害虫
駆除でも何でも構わないでしょう。留守は私が何とかいたしますので、良美様も
安心して皆様とお出かけ下さい。」
「ありがとう。ここはお任せしますわ。」

 そう言って微笑む須永理事長に、光と真理は意外な表情を浮かべる。
いつもどんなに危険な状況であってもこの大学を離れず、一緒に行動する事を避け
ていた須永理事長が何が起こるか分からない逃亡の旅に付き合うというのだ。

「ちょっと…理事長、一体どういう…?」
「あら、真理さん、あなたも一緒に出掛けるんですのよ?急いで支度していらっし
ゃい。すぐに出発いたしますわ。」

 いつもののんびりとした様子とは変わり、きびきびと支度を始めた理事長に首を
傾げながら真理は旅支度のために光と共に部屋を出てゆく。

 最後に理事長室を出てゆく博士と秘書に、良美は着替えながらウインクして見せ
た。

「私にも大事なものがあるのよ。歳をとったって事かしらね?」
「いや、理事長。歳は関係ないでしょう。喧嘩仲間は大事だよ。」

 博士はそう言って隣の秘書と顔を見合わせ笑った。
もっとも、重い腰の理事長が行動を起こしたという事は、それだけ彼女も今回は
危機を感じているのかも知れない。

「…理事長、急ぎましょう。夜のうちに森を抜けなくては敵の目を欺けません。」


 無言で頷き、須永理事長は近くにある小さなカバンをひっ掴むと、部屋の電気を
消して廊下へと急ぎ足で出てきた。

 

 

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        (続く…)