ザ・怪奇ブログ

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水面の彼方に 16話

 

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             16  魔女の森


 まだ数時間は朝日を拝むことのない深夜、深い森の中に動く影があった。
それは聖パウロ芸術大学と市街地を結ぶ砂利道の草むらに、潜むようにうずくまる
数人の人影である。

 約三キロ近い一本道のほぼ中間地点に待機している謎の武装集団たちは、道の
両脇に三名ずつ計六人。そして芸術大学の地下に広がる廃坑道の出口付近にも計
六名の武装集団が、大学から逃げ出してくる者を捕えようと待ち構えていたので
ある。

 草むらに隠れるように待機している武装集団は、いずれも全身迷彩服に身を包み
、みな肩から大きな機関銃をぶら下げていた。彼らは表向きの軍隊とは違い、世界
各地の紛争やテロリストたちを秘密裏に処理する、いわば実戦経験豊富な傭兵のよ
うなものであり、暗殺のプロなのである。

 彼らの相手は人間のみならず、凶暴化したグリズリーや村一つの住民を飲み込ん
だ大蛇など様々で、命がいくつあっても足りないくらい修羅場を潜り抜けてきてい
る猛者たちだ。そのメンバーは日本人のみならず、外国人も交じっているのだが、
どのみち一般人に姿を見せる事はない。

 そんな彼らがこの森へと到着したのは、基地司令官の弘毅が大学へと一人で潜入
してすぐの事だったが、それきり四時間ほど司令官から連絡は無く、この場に待機
したままなのである。


「遅いな、まさかとは思うが、司令がやられちまったなんて事はないよな?」

 いい加減、草むらに隠れるのが嫌になってきた一人の武装兵士が砂利道へと出て
きて反対側の連中に言った。その彼らも、服についた虫を手で払い落としながら草
むらからぞろぞろと出てくる。

「冗談でしょ?過激派連中のアジトに一人で乗り込んでいって殲滅してくる人よ?
どうやったら女ばかりの大学に乗り込んでやられるっていうの?」

 唯一の女性武装兵が暑苦しいヘルメットを脱ぐと、先に砂利道へと出てきた男に
言った。彼女は浅黒い肌の南方系女性で、身長はそれほどでもないが大きな機関銃
を楽々と肩にかついでいる。

「けどよ、聞くところによると先日の作戦行動で十二名も叩きのめされたらしい
ぜ?それも一人の女だって話だ。そいつもこの先の大学に潜伏してるんだろ?」

「その話が信じられないのよね。どうせ、そいつの仲間でも沢山いたんじゃない?
一体どうやって、十二人もの武装した男たちを一人で叩きのめせる女がいるってい
うの?私でもせいぜい二、三人が限界よ?はん?」
「あんたなら、四、五人は倒せるだろうよ。」

 砂利道に出てきた武装集団たちはげらげらと笑いころげた。
長時間草むらにじっとしていた彼らは、何事も起きない緊張感から僅かに気が緩み
始めていたのである。

 彼ら武装集団に与えられた任務は、単独での潜入を試みる藤原司令官が万が一に
も戻らなかった場合の時、大学に隠れている二人の探偵とその協力者でもある間宮
薫らを拘束することにある。そのタイムリミットは五時間…残り十数分というとこ
ろだった。


「…昔、仲間から聞いた話なんだが、この森にはずっと前から”魔女”が住んでる
らしいぞ?」

 そんな中、一人の武装兵が暗い森の奥を見つめながらぼんやりとつぶやくように
言う。気味の悪い鳥の鳴き声だけが暗黒に包まれた森に響いていて、どこからか吹
きつける風が木々の葉を揺らしざわざわとした音を立てている。

 まるで明かりのない砂利道には所々に水溜りが出来ていて、激しい雨が降った後
なのかあちこちぬかるんでいる。増水のため近くの小川から激しい水の音が暗い森
に響いていた。

「マゾ?そりゃあんたたちが好きなものじゃないの?」

 南方系女性兵がからかうように言うと、またも武装兵たちはげらげらと大笑いす
る。だが、その男は一人真剣な表情で彼らの笑いを遮るように言った。

「魔女だよ、魔女。この森には代々魔女が住んでいて、ここに不用意に近ずく者に
災いを与えるっていう言い伝えがある。現にこの土地には何十年にも亘って奇妙な
事件が起きてるし、たくさん人が死んでるぞ。」

「間宮薫でしょ?でもさ、その女だって生身の人間でしょ?非現実の存在ではない
わ。いつだったか、アメリカ先住民のカルト団体で、自称魔術師なる女のアジトを
潰した事があるけど、ハイになってるただの狂人だったわ。間宮薫にしたって現実
の人間にすぎないの、ほんとに怖いのは銃を手にした相手よ。」

 彼女の言葉に無言で頷いた他の武装集団の男たちは、それぞれ銃を手に行動準備
を始めた。そろそろ予定されていた五時間が経過しようとしている。少々乱暴なが
ら、大学へと侵入し速やかに占拠しなくてはならない。

 あの藤原司令官がやられたとはこの場の誰も思ってはいなかったが、何らかの
トラブルという事はあり得る。予定していた行動は時間通りに行われるのが隊を組
む者の鉄則である。

「よし、行くぞ。」

 

 その時、それまでざわざわと風で揺れていた木々の葉も、奇妙な鳥の鳴き声も
ぴたりと止み、暗い森に不自然なほどの沈黙が訪れた。

 まるで、あらゆる生き物が全て動きを止め、息を殺し固唾をのんで様子を伺って
いるような…風に揺れる葉も、その時ばかりはさらさらという音を立てずにいるよ
うな…いや、事実その時、風は止んでいた。秋の美しい虫の音も、どこからか聞こ
えていた小川の水の音も、時が停止してしまったかのように…。
 

「…待て、様子がおかしい。」


 沈黙…。
およそ自然界では考えられないような完全なる沈黙がその場を支配していた。


「おいっ、何だこりゃ?急に静かになったぞ?」
「しいっ!黙って…何か変だわ。」


 世界各地で修羅場を潜り抜けてきた彼らには、この時の異常な様子が頭ではなく
気配で感じられた。他に例えられるものがあるとすれば、凶暴な動物が現れた時に
感じる殺気のようなもので、近くの小動物たちは息を殺してその様子を見守ってい
たのである。その時に似ていると、浅黒い肌の女兵士は思った。

 だが、奇妙なのは音だ。
風が急に止むのはあり得ない事ではないが、聞こえていた水の音が聞こえなくなっ
たというのは不可解なことである。

 彼女は機関銃を顔の前で構え、ヘルメットに搭載された暗視カメラを使い辺りを
素早く見回す。森の中にも空にも動くものはない…。

「…なんか嫌な感じがする。何かー」

 

 

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 そう言って機関銃を両手に構えた男の背後の闇に、女の姿を見た武装兵の一人が
小さな悲鳴を上げた。黒いローブのようなものに身を包んだ女が暗い森の奥から現
れ、こちらに向かって音も無く歩いてきたのである。

「ひっ…!?何かいるー」
「何だ?何がいるっていうんだ!?」

 

 その瞬間、機関銃を構えていた男の手がかってに動き出し、暗い森に向かって
いきなり銃を乱射したのだ。奇妙な事にその機関銃は、飴のようにぐにゃりとおか
しな方向に曲がっている。

 他の武装兵にも同じことが起き、皆あちこちの方向に向かって機関銃を撃ちまく
りはじめた。身体に装着していた様々な武器や爆薬も無理やり引きちぎれ、どこか
へと飛んでいく。ナイフも通信用の機器も全て、同じように身体から離れ四散して
いった。

 さらに全身の筋肉が極度に緊張したように指一本自由に動かせなくなったのだ。
顔を動かすことも出来ず、目だけで何が起こっているのかを判断しようと試みるが
、それすら上手くいかない。


 その後に起こった事は、この場にいた六名の武装集団兵の誰にも、詳しく説明
出来る者はいなかったが、完全にパニック状態に陥ってしまった事は確かだった。

 

 

 


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 暗い森のけもの道を急ぎ歩く博士たちがそれに気ずいたのは、頭上を飛んでゆく
異常な数の鳥たちの音だった。暗闇の中でお互いの位置を示すためか、ぎゃあぎゃ
あと鳴きながら飛んでいく。それも凄い数である。

「おや?こんな時間に鳥が…。」

 博士は騒がしげに飛んでいく鳥たちの音を聞き、真っ暗な空を見上げて足を止め
た。すでに二キロ以上も暗い山道を歩き続けていて、ここまで休みなしである。

「おかしいわね、こんな夜遅く鳥が移動するなんて。」

 光もにわかに森の様子が変わった事に気がつき辺りを見回す。
頭上の様子は暗いために良くは見えないが、かなりの数の鳥たちが飛んでゆくのが
その鳴き声で分かる。

 もちろん、鳥目とはいえ真夜中に飛ぶ鳥もいるにはいる。
しかし大群で飛ぶには危険すぎるし、よほどの緊急時でなければ鳥たちが夜に飛行
することは無い。


「ところで、あの音は何だろう?」

 鳥たちの騒音が収まり急に静寂が戻ってきた時、今度は遠くから奇妙な音が聞こ
えてきた。かなり遠く、微かな音が博士や光の耳に飛び込んできたのである。

 何かぱらぱらという音が、断続的に聞こえてくる。
まるで数キロ先で花火大会でも行っているような…それでいて花火よりは矢継ぎ早
に音が聞こえてくる。

「…これ、銃声じゃないかしら?」
「銃声!?」

 光の言葉に顔色を変えた面々は、みな音も立てずに遠くから聞こえてくる音に耳
を傾け始めた。たしかに断続的に続くぱらぱらという音が聞こえている。そして、
その方角は…

「まさか…あの方角には大学があるわ!」

 断続的に聞こえていた音は紛れも無く銃声であった。それも機関銃と思われるよ
うな連発式のものである。それが大学の方向から聞こえてくるとなると、考えられ
る事は一つしかない。

 予想されていた、大学の周辺に待機していた武装集団たちがいよいよ姿を見せた
のではないか?ということだ。彼らは自分たちが大学にいる事はすでに承知してい
るはずで、遅かれ早かれ大学に奇襲をかけるということも有り得ない事ではない。

「大学が襲われてるってこと?」
「分からないわ、でも…」

 だが、光も含め、他の誰も今の状況では何も出来ずに聞こえてくる不気味な銃声
を黙って聞いているしかなかった。ここからでは戻ることも出来ないし、戻ったと
ころで、どれだけいるかも分からない武装集団に敵うはずもない。相手は銃を持っ
た軍隊なのである。

 光も真理も、青ざめた表情で聖パウロ芸術大学の方向を見つめた。


「ちょっと変じゃないか?」

 声も無くその場に立ち尽くしていた面々に、腕を組んで遠くの銃声に耳を傾けて
いた博士が言った。いまだに、ぱらぱらという銃声が聞こえている。

「何が変なのよ?」
「いや、銃声だよ。さっきからずっと聞こえているだろう?それが奇妙なんだ。」

 またもおかしなことを言いだした坊主の男に、光も刑事の涼子も眉毛を顰めた。
大学周辺から機関銃を連射する音が聞こえてくるというのは、今、考えられる事は
一つしかない。大学が謎の武装集団に襲われているのだ…。

「まずおかしな点は、銃声が大学の中ではなくて、大学の外…森の中だって事さ。
あの要塞のような大学の中で銃を撃っているなら、こんな遠くまで音が聞こえるだ
ろうか?」

 博士の疑問に光は一瞬だけ両目を大きく開き、それからまたも片方の眉毛を顰め
る。

「…確かに。大学の中からの銃声ではないわね。で、他のおかしな点は?まだある
んでしょ?」

「うん、もう一つは今も聞こえている銃声だよ。一体銃声の主たちは、何に銃を向
けているんだろう?何と戦っているんだろう?明日の朝までは誰も大学の外には出
ないように言ってあるし、大学の外から機関銃を連射するなんていう間抜けな事を
、厳しい訓練を積んだ兵士がやるとは思えない。」

 確かに博士の言う疑問は光にも理解出来た。
先ほどから聞こえる銃声は、いまのところ止む気配がない。まるで森の中で戦争で
もやっているかのような断続的な銃声である。

 だが、一体誰と…?


「そうですわ!執事ちゃんに連絡してみれば何か分かるかも…?」
「そう…ね。良美ちゃん頼むわ。」
  
 ある意味、謎が簡単に解決出来そうなことを理事長が言い出した。
しかし、執事が携帯に出ないということも予想されるのであるが、その場合、光ら
が最初に思い描いた”最悪のシナリオ”が現実に起こったという事でもある…。

 

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 理事長が自分の携帯で大学に残る執事の白川に連絡をいれ繋がるのを待つ間、
この場にいる博士らは緊張の面持ちで須永理事長の顔を見つめる…。


 呼び出しの音が鳴り続けている……

 

 

 

 

 

『……はい、白川で御座います。』
「あらっ、繋がったわ。あの、そちらご無事ですの?」
『…ええ、何事も御座いませんが…?今、理事長室でメジャーリーグの衛星放送を
観ようかと思っていたところで御座います。』

 執事の白川が何事もない様子で、光や真理らは少しだけほっとする。
だが、いまだ銃声が聞こえているので予断は許さない状況であるのは変わらない。
光は須永理事長の携帯を手にすると通話先の白川に話しかけた。


「あの、ちょっといいかしら?」
『…はい、光様。何で御座いますか?』
「そっちから銃声が聞こえるのよ。何かおかしなこと起きてない?」
『…銃声で御座いますか?少しお待ちを…』

 執事の白川は光の言葉を受けて、素早く理事長室の窓際へと移動する。
そしてカーテンを指で少しだけ開くと、外の闇を細い目で凝視するように見つめ
た。分厚い壁に覆われているため、少々の音では外の物音が室内に聞こえることは
まずない。

 暗い光一つ無い森の奥に、一瞬だけちらりと火花のようなものが見えた。
よく耳をすますと、確かに遠くから時折見える閃光と銃声のような音が聞こえてく
る。

『……はい、どうやら森で何かが起きているようで御座いますな。ですが…光様、
こちらの事は心配は御座いません。どうか急いで森をお抜け下さい。』
「心配御座いませんって……一体どういう事よ!?」

 光は執事の意外な言葉に、通話に耳を立てて聞いている博士らの顔をまじまじと
見つめ声を出した。

『…光様方がこの大学を留守の間、”助っ人”を頼みまして…はい。』
「助っ人ですって!?相手は訓練を積んだ軍隊よ?一体何の助っ人なの?」

『…実は私、巣鴨に喫茶店を一つ経営しておりまして…そこのアルバイトの子を
一人、大学の護衛に呼んであります。ちょうど今頃こちらに来た頃ではないでしょ
うか?おっ、サブロー打ちました。』

 何とも優雅でのんびりとした口調の執事の言葉を聞いて、光は携帯を耳から離し
口を開けたまま数秒ほどぼんやりと博士らの顔を眺めていた。


「……ちょっと、もう一度聞くわよ?アルバイトって…喫茶店の?」
『…はい、時給は780円ですが、文句を言われた事はありませんな。良く働いて
くれる子ですよ。』


 光はまたも携帯を耳から離し、今度は博士に携帯を手渡しながら通話の内容を皆
に話して聞かせた。何とも魂が抜けたように…。

「……なんかね、喫茶店でバイトしてる子が助っ人で来てるらしいわ。大学は心配
無いから急いで森を抜けろってさ…。」

 この場にいる面々が通話内容に声も無く唖然とする中、聞こえていた銃声がぴた
りと止んだ。


「…えっ?何て?」
「……アルバイトの子。時給780円だって…」

 涼子の質問に光が答えた時、秘書が急に何かを思い出したような表情で博士の顔
を見つめ、ぽんっと自分の手を打って言った。

「あああーっ!?博士…!もしかしてアルバイトの子ってー」
「おおっ、そうか…いや、しかしあの子は…」

 

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 秘書の言葉に博士も何かに気がついたような表情を見せ、携帯を持ち直すと通話
先で待つ執事に話かける。

「…銃声が止んだ。本当に森を抜けても大丈夫かい?」
『…はい、こちらの事は問題は無いでしょう。あなた方がここにいないと知れば
連中も、この大学を襲う理由もないでしょうから。』


 一昨年のあの事件以降、”あの子”の消息はまったくの不明だった。
そして、当の執事も同様にこれまで行方知れずだったのである。その二つの事柄に
博士はある結論に至り、片眉を上げにやりと笑みを浮かべた。


   ”…あの執事、ああ見えてそうとうな食わせ者なんじゃないか?”


「そうか、アルバイトの子によろしく伝えてくれ。たぶん会うことは無いとは思う
が…助かった、とね。」
『…かしこまりました。伝えておきます。探偵様もご無事で。』


 それだけ伝えると通話を切り、博士は須永理事長に真っ赤な携帯を返した。
もちろん彼女も何が起きているのか見当もつかずに、きょとんとした表情を見せな
がら携帯をバックに戻した。

「さ、明るくなる前に急いで森を抜けよう。」 


 博士と秘書は小さな一本のけもの道を、先頭に立ち歩き出す。
一体何が起きているのかよく分かっていない光や涼子らは、唖然としながらも先を
いく博士らを追って急ぎ足で歩きだした。

 

 

 

 雨に濡れた砂利道にへばりつくような状態で身動きが取れずにいる武装兵の一人
は、何が起こっているのかを確認しようと目だけを動かした。全身は指の先まで
まったく動かすことは出来ない。

 何か自分の身体全体が、強烈な圧力で上から押しつけられているかのような状態
だった。顔面の頭骨が軋み、耳の奥で電気的な振動のようなものが響いている。
恐らく回りの音を遮断しているのはこの振動音だろうと、武装兵の一人は思った。
自分の全身を圧迫する軋みと、血流が逆流し酸素が脳に送られていかない状態…
つまり、意識が遠のいていってるのである。

   ”だが、一体何の圧力が自分を押し潰しているというのか?”

 状況を判断するため目を動かすと、同じく砂利道に倒れている仲間の姿が見えて
いる。あれほど機関銃が暴発していたというのに、お互い怪我の一つもしていない
状況は奇跡のようだったが、自分たちが置かれた状況が異常なものであることには
変わりがない。すぐそばの水溜りに、異常に変形した自分の機関銃が落ちている。

 

 

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 その時、地面すれすれにある武装兵の視線の先に、何者かの足が横切った。
強烈な圧力で押し潰され身動きが取れない自分たち以外に、この場に誰かがいると
いうのか?けして大きくはない、子供のような細い足だった。

 武装兵の男は、一体これから何が起きるのか?
生きた心地の無い状態で、何が起きるのかを自分の目だけで確認しようと動かす…

 その時、視界の端で砂利を踏む足音が聞こえた。
先ほど横切った足の主が、自分の頭から数センチほどしか離れていない場所に立っ
ているのだ。

 それが、砂利道に寝転ぶ自分の頭に近ずくようにしゃがみ込む。
黒い髪の毛が自分の顔にかかり、危うく悲鳴を上げそうになったが、どのみち声を
出す事は出来なかった。長く黒い髪は控えめながらもシャンプーの香りがする…。


         ”…シャンプーの香りだって?”


 その何者かが、身動きの出来ない耳元に小さな声で囁いた。
意識が遠のきそうな武装兵にとって、その囁き声はまるで天から聞こえる啓示の
ような響きを伴っていた。


「…彼らはもうここには居ない…今すぐに立ち去るがいい。もし、また戻ってきた
なら…今度は無事では済まないぞ?」


 若い女の声が聞こえ、はっきりとそう言った。
綺麗な声だが、明らかに高圧的な内容に男は恐怖にかられ動かないまでも首を縦に
振る。

 その動作が相手に伝わったのか、黒い髪は視界から消え、砂利を踏みしめる音は
どんどん遠ざかり、ついには聞こえなくなる。そして、かろうじて保っていた意識
を失った。

 

 


「…お、おい、誰か姿を見たか?」
「いや…はっきりとは見てない。」

 ようやく身動きが出来るようになった武装兵たちは、それぞれ状況を確認する。
六人ともに怪我を負った者はいなかったが、今まで遭遇したこともない状況に困惑
していた。

「一体何だったんだ?女の姿を見た気がする…。」
「女の子だな、俺の顔の上を跨いでいった…可愛いパンツ履いていたな。」


 砂利道に落ちている機関銃は全ての弾を撃ち尽くしていた。
交換用のカートリッジも手榴弾も護身用のナイフまでも、どこにいってしまったの
か無くなっていたのである。銃は飴のように奇妙なほど曲がってしまっていて、ま
るで使い物にならなかった。一体どんな圧力が加われば鉄の塊がこんな状態になる
のか?


「一体なんだったと思う?」

 武装兵の男が、南方系の女性兵に震える声で言った。
気の強い彼女だったが、何ともばつが悪そうな表情で頭を掻きながらぼそぼそと
話す。顔からは完全に血の気が引いていて、浅黒い肌は蒼白になっている。

「分からない…分からないけど、あんたさっき妙なこと言ってたよね…?魔女が
どうとか…。」
「ああ、魔女だよ。こんな奇妙な事が出来るのは…魔女の仕業に違いない…!」

 
 先ほどまでは笑い馬鹿にしていた話だったが、今は誰も笑う者はいなかった。
しかも武器という武器は何一つ手元には残っていない。残っているのは四輪駆動の
ジープだけだ。

「まあ…何にしても、俺たちもこれが仕事だからな。このまま手ぶらで帰る訳にも
いかない。車で大学まで行って司令の安否くらいは確かめー」


 武装兵の一人がそう言った瞬間、少し離れた砂利道に停めてあった四輪駆動車が
突然凄まじい音と共に叩き潰された。見えない何かが、大型のジープを上から押し
潰すように、それも一撃で鉄の塊がぺちゃんこになってしまったのだ。

 大きなタイヤの一つが、呆然とそれを見つめる武装集団の足元に勢いよく落下し
てきて、それを合図に彼らは聖パウロ芸術大学とは正反対の方向に向かい、一目散
に逃げ出したのである。


 それ以後、彼らは二度とこの森へ戻って来ることはなかった。

 

 

 

 

 暗く明かり一つない砂利道を歩くこと十数分、彼女の目の前に大きな白い建物の
パウロ芸術大学が見えてきた。なるほど、噂に聞く魔女が住むという伝説も、こ
の奇妙な磁場が働く森と建築物を見れば納得出来る。

 この森のどこかに、磁気を狂わす何かが存在しているのだろう、それはおそらく
あの大学の地下から放出されている奇妙なエネルギー…オルゴンのせいであろうと
彼女は思った。


 やって来た砂利道を振り返るが、先ほど充分に脅かした連中が戻ってくることは
なかった。もっとも、そう何度も力を使い人間たちを驚かすことは彼女であっても
容易に出来る事ではない。膨大な意思の力を使うには十分な休養も必要で、万能で
はないのだ。ましてや、今の自分は人としての身体を有している。念の力を無限に
放出できるほど人間の肉体は丈夫ではないのだ。

 聖パウロ芸術大学の文字が彫り込まれたレンガ作りの門柱までやって来た彼女…
かつてモラヴィア館で”千恵子”と呼ばれていた彼女は、猫のように身軽にレンガ
の上にかけ上がり腰を下ろす。

 驚くほど白い肌に、腰辺りまでのびた長い黒髪。
黒いフードつきのパーカーに、海賊と思われる骸骨のアニメプリントのTシャツを
着込んでいて、どこから見ても今時の若者にしか見えない。月給はけっして多くは
ないが、バイトの休みに裏通りの古着屋で服を買うのはなかなか楽しい事だと彼女
は思った。


 だが、千恵子にはもう一つ”暗闇の魔女”という名で呼ばれ崇めたてられていた
時期もあった。

 いつの頃からかも覚えていないくらい遠い昔から、意思の力だけで存在し続けて
きた。自分がどこで生まれたのかも生物なのかも分からなかったが、長きにわたり
様々な物に憑依して存在し続けてきたのである。ある時は岩に、ある時は数千年を
生きた古木に、そして偶然にも人間に憑依したことで、自分という存在は大きく
変化したのだ。

 人間という存在はこの広大な世界においてひどくちっぽけな存在だが、その起伏
に富んだ行動原理、細やかな感情は、自然界に君臨した頃とは比べるべくもないほ
ど彼女には興味の対象になっていったのである。


 自分という存在が初めて人間に憑依して逃げ出した時、この千恵子という存在に
出会った。その時、彼女は交通事故に遭い今まさに命が尽きようとしているところ
だったが、彼女はひどく生への執着の意思を外部へと放出していた。その彼女に、
興味を持った意思だけの存在は、その日から彼女と一つになったのである。

 千恵子という人間の、短くも儚い一生を…。

 そして、自分を利用した者たちに復讐をする過程で出会った奇妙な人間たち。
その彼らの手助けをするため、ここへやって来たのである。目的も無くただ存在し
ていた無の存在であった自分が…闇の世界の住人たちに恐怖の存在として知られた
暗闇の魔女が、小さき存在の人間を守る…何とも滑稽な話であると彼女は思った。

 もちろん、ただの気まぐれである。
気まぐれだが…こうも思った。長い、永遠と思えるほどの孤独の時間の中で、自分
という存在を知っている人間がいるという事実に、どこかしら”悪くないな”との
感情が生まれたのである。


 レンガの塀の上に座り、両足をぶらぶらしながら千恵子はくすくすと笑った。
どうやら人間としての思考に、いつの間にか適応してきたらしい、と。

 

 

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       (続く…)