ザ・怪奇ブログ

怪奇小説・絵画・怪奇の世界!

水面の彼方に 1話

 

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               プロローグ 


 夕闇が近ずく日暮れ時、食品加工会社に勤める入江杏は、勤務時間終了とと
もに従業員用の女性専用着替え室で着替えを済ませていた。ほどなくすれば、
ここに大勢の女性従業員がやって来るが、そのほとんどはパートである。彼ら
がやって来る前にここを出て行かねばならない。

 食品加工の業務の中でも杏が行う日々の仕事は、開発や研究といったいわゆ
る「科学者」という奴で、まだ若いが会社の中でもエリート社員なのである。
食品の加工や仕分けなどを行うパート従業員とは、業種そのものがそもそも違
うのだ。

 杏の仕事は、フラスコや顕微鏡などを毎日覗いたりする事である。
新たな野菜の品種改良やら、それらのデータを取り研究する研究者なのだ。
もっとも、自分としてはエリート意識などはまるで無いから彼らパート従業員
と同じ場所で着替えを済ませているのだが、どうやら彼らの方が自分を色眼鏡
で見ているらしく、顔を合わせると気まずい雰囲気になってしまうのだ。

 それは彼女にとってはひどく残念で、悲しい事だった。
この土地の生まれでは無い杏だけに、よけい皆と仲良くなりたいと思っていた
のである。

 着替え室の外の通路から大勢の楽しげな話声が聞こえてきた。
杏は急いで荷物を手に部屋を出てゆくと、ドアの外でパート従業員たちとすれ
違う。

「お疲れ様です。」

 小さな声で言葉をかけたが誰も声を返す者は無く、杏は会釈しながら玄関の
方へと早足で出て行く。しばらくして後ろを振り返ると、また楽しげな笑い声
がしてきて、杏は少しだけ寂しそうな表情で会社を出た。

 この工場が完成してもう三年にもなるというのに、杏は今だに誰とも知り合
いになっていなかった。もちろん、研究の毎日でよけいな事に時間を割く暇も
なかったのだが。

 九月の夕暮れ時は早く、外はすでに日も落ちていて真っ暗だった。
杏はこの小さな街の、会社からそう遠く離れていない場所にアパートを借りて
いるので、いつも徒歩で帰る。

 広い駐車場を抜け、大きな門を越えると街のメインストリートまでは暗い
並木通りが続いていて、通り過ぎる車は会社帰りの従業員くらいだった。


 人口五百人にも満たない四方を山で囲まれた盆地にこの緑川町はある。
二つの一級河川に挟まれた場所にあり、少ないながらも緑柱石が取れる事から
緑川町と名ずけられた。緑柱石が取れる緑川と、黒川と呼ばれる二つの豊かな
川である。

 昔は炭鉱町として栄えた時期もあり、賑わった頃もあったが今では人も減り
すっかり寂れてしまった。デパート一つも無い街では、若者が離れていくのも
無理もないが、自然が豊富なこの土地は春や秋になると観光客がやって来る。
ペンションなどが多数存在しているのもそのためである。

 だが、一年を通しての収益が見込まれないこの町は、年々寂れつつあった。
そこに杏の勤める食品加工会社が工場を建てたのは、今から三年前のことであ
る。この街に杏がやって来たのもその時だ。


 ふと、ゴミ収集場所に沢山の野良猫たちが集まっているのを杏は見つけた。
不思議な事にこの小さな寂れた街は、人口の少なさの割に猫が多い。猫が好き
な杏にとっては、その事は願ったりな状況で、自分でも一匹アパートで飼って
いるほどである。

「ほら、おいで?」

 杏が立ち止まり手まねきして見せるが、十匹近くいる野良猫たちは皆じっと
その場を動かず、並木道の向こうに黒々と聳える工場の方を見つめていた。

 猫たちの奇妙なまでの静寂さに杏は工場を振り返り不安げな表情を浮べる。
彼らがあの建物の何に興味を示し警戒しているのか?そしてその見えない先に
何を感じているのかが、杏には何故か分かる気がしてさらに不安な気分が増し
てくる。

 不気味な沈黙を続ける猫たちを残し、杏は足早に並木道を抜け、アパートへ
と家路を急いだ。

 

 

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              1  奇妙な依頼


 二階建てのいたって普通のアパートの階段を上がり、杏は自分の部屋へと帰
ってきた。途中、スーパーで購入した冷やし中華を足元に置くと、その場に座り
、ノートパソコンの電源を入れる。杏の楽しみは、家に帰ってネットを見る事
だ。

 これといって何も無い六畳一間の部屋だが、電気屋で数時間かけて選んだ
箱型パソコン一台と、ノートパソコンの二台にプリンターが置かれてあるが、
いずれも高価な物だ。

 割り箸を口に咥えながら、杏は恐ろしく早い勢いで今日の出来事やらニュー
スを見て回る。これという興味のある事件もニュースも今日は起きてはいなか
った。その代わりに、数千円が欲しいばかりにコンビニの店員を刺したとか、
国道を時速百七十キロ近くで逆走したなどというニュースが起きていた。

 文明も末期が近ずくと、衣食住以外の贅沢を求めた事件・争いを起こすらし
い。生きるということ以外にも、贅沢や刺激を求めてゆくようになるのだ。
ドラッグなどは欲張り者たちの中でも最たるものである。


 冷やし中華の蓋を開けると、独特な酸味の効いた良い香りが漂う。杏はこの
食べ物が特に好きなのだ。ハム、きゅうり、卵という具に酢醤油を麺に絡ませ
て食べるという、日本を代表する画期的な食べ物の一つだと杏は思っていた。

 すると、ベランダの小さな入口から杏の飼っているベルという名の猫が部屋
へと戻ってきた。この三毛猫はベランダ伝いに階段を降りて外へと自由に出入
りしていて、部屋の主人が帰る時間をちゃんと把握しているのである。

 パソコンの画面に目を配らせながら、杏は振り向きもせずに近くへとやって
きたベルに冷やし中華のハムを与えた。日本人の多くは勘違いしているが、猫
は元々大の肉食で、肉しか食べなかったのだ。現在人間の生活圏に住む猫たち
は様々な物を食べて暮らしているが、そのストレスを発散させるためにときど
き鼠を捉える行動に出るのである。いわゆる”狩り”だ。

 

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 片手で麺を啜りながら、黙々と画面に目を走らせる杏はニュース記事から離
れ、物凄いスピードで両手を使い文字を打ち始めた。どこかにアクセスしよう
としているのである。

 
            [ 防衛省データベース ]

              :アクセス拒否:


 その画面の文字を見て、杏は舌打ちしながらも再度キーボードを叩いていく。
もちろん片手では冷やし中華を啜り、最後のリターンキーを人差し指で押す前
に鼻もほじった。


            [ 防衛省データベース ]

                ”ようこそ”


 二度目のアタックで杏は簡単にプロテクトのかかった政府のデータベースへ
と侵入した。いわゆるハッキング行為というものである。ネット辺りで重大な
事件が報道されるとは思ってはいないが、やはりというか防衛省のデータベー
スにはお目当ての事件が記載されていた。

 杏はにこりともせずに、瞳だけを動かしデータベースを調べていく。
必要な情報を次々に観覧し、それらを全て頭に叩き込む。杏にはそれが出来た
し、そうしなくてはならないほど事態は一刻を争うことを知っていたのだ。


 彼女は優秀な科学者であり、そしてハッカーでもある。
あらかた必要な事を観覧すると、杏は防衛省のデータベースから出てそれらを
プリントアウトした。かなり鮮明な画像がいくつか出てきて、手に取りまじま
じと見つめる。

 その画像は年の頃は五十代くらいの男性で、完全に頭が禿げかかっていた。
これといって特徴の無い中年男性の顔写真である。そのプリントを畳の上で
四つ折りにすると、丁寧に茶封筒に入れた。中には手紙も一枚添えて。


 そして真後ろの畳にごろんと仰向けに転がると、天井を見つめため息を一つ
吐き出す。背は高くずいぶん痩せていて、とてもプロポーションが良いとはい
えない杏だったが、科学者なんて大抵こんなものだと思っている。

 するとそのお腹の上にベルがじゃれついてきた。

「こら、この悪戯っ子め。」

 杏はベルを抱き上げ部屋の中をごろごろと転がる。
彼女がこの街に越してきて、唯一友達になれたのがこのベルだった。他の猫
たちは一匹たりとも自分に気を許す事はなかったが、ベルだけは違った。この
子はひどく頭の良い子で、相手の考えている事が分かるのである。

 そうでなければ、絶対に自分になつく筈が無いと杏は知っているのだ。
そう、絶対に。


 しばらく畳の上に転がりまどろんでいた杏は、急にむくりと起き上がりまた
ネットでどこかにアクセスする。

 怪しげなBGMとともに、何かのホームページが開いた。            

 


The Golden Ring - Korobushka

 

 

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         ” 「博士」と@秘書@の/なんでも探偵事務所☆ ”

          事件、難題、ぺット捜索、ドブさらい…
         何でもお引き受けします。お一人で、また
         お誘い合わせで…

 

 それは誰かのホームページらしく、入口のウェブページには奇妙な人物が
描かれている。一つは女学生が描いたような女子の漫画絵と、何かジャガイモ
を彷彿とさせる頭部を持つ黒ずくめのおじさんが描かれていた。

 何だか子供のいたずらのような探偵事務所のホームページで、いつからこの
ホームページが開設されていたのか知らないが、総アクセス数は173だった。
そしてその数のうち、杏がここを観覧したのは44回である。

 ホームページの内容は、主に事務所への連絡方法とメールの受付くらいで、
あとは稚拙なブログのような内容になっている。やれお菓子の新発売だの、
ムード歌謡どうのこうのといったもので、どれ一つ取っても敏腕探偵事務所
には思えない事だろう。

 

 だが、杏は知っていた。
彼女はハッカーであり、およそ世に存在する情報ならば大抵のものは引き出せ
るのである。

 と、ある政府機関のデータ内を行き来していた時、過去に起きた数件の事件
の重要人物の中に彼らのデータが存在した。杏はひどく興味を持ち、相当数の
情報を引き出す事に成功したのである。

 

       双子岳スキー場がけ崩れ遭難事件…

       ブルクハルト芸術大学連続殺人事件…

       聖パウロ芸術大学連続殺人事件…

       板橋区連続猟奇殺人事件… 


 そして杏はこうも思った。
彼らならば、現在も刻一刻と進む忌まわしい出来事に気がつき、私たちの力に
きっとなってくれるだろう、と。

 

 

 

 

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 差出人不明の茶封筒が届いた翌日、ぼうず頭の博士と秘書はある都市にやっ
て来ていた。すでに日も暮れ夜が訪れている郊外の外れに建つ、大きな家の前
へとやって来た博士は空の天気を見て眉毛を顰める。

「これは一雨きそうだぞ。」

 辺りは閑静な住宅街になっていて、大きな家が建ち並んでいた。
目的の家は電気の明かりが点いており、この家の主人がいる事を教えている。
茶封筒に入っていた画像の男を今晩一日だけ見張って欲しいとの内容が手紙に
したためられてあるだけで、詳しい事はまったく書かれてはいなかった。
あとは、数万円の依頼料と思われるお金が入っている。

「博士、こんな奇妙な依頼は初めてね。もしかして不倫現場でも押さえろとか
って言うんじゃないかしら?」
「…どうかな。」

 二人は目的の男の庭に侵入すると、寝室の窓が見える生垣に隠れながら囁く
ように言った。中年の禿げ頭の男は、時折不安げに窓の外を見つめに顔を出し
てくる。間違いなく画像の男だ。

 二階建てのモダンな家は贅沢な装飾がほどこされてあり、この家の主がかな
り裕福であるという事を教えてくれる。時折窓に映る禿げ頭の男の服装からも
、それは見てとれた。

「…そもそも、今晩だけ見張るってのはどういう事なんだ?手紙の送り主は、
名前も住所も書いてない。一体何が目的で数万ものお金を払って我々に覗きを
させるメリットがあるんだろう?」

 そう言って博士はポケットから茶封筒を取り出すと、今この場所の住所が書
かれた紙をもう一度見つめる。相手の住所も連絡先も何も書かれてはいない。
おまけに封筒には郵便局の消印も押されてはいなかった。

「それに、手紙の送り主は一体どうやって事務所の番地を知ったんだ?我々が
探偵をやっている事を知っている者はごく限られた人間しかいない。依頼も、
ホームページのメール交換で初めて住所を教える訳だし…」
「知り合い全部に聞いたけど、こんな手紙出してないそうです。向かいに住む
近所のおばさんかしら?」

 つまり、相手は正規のルートで手順を踏んで博士らの住所を知った訳では
ないという事だ。博士は紙を四つ折りにすると、茶封筒の中に息を吹きかけて
入口を大きく開く。

「おや?これは…」

 
 すると、数軒先の通りに配達用のトラックが一台静かに止まった。黒い犬の
絵がついたお馴染みのトラックだ。博士がちらりとそちらを振り向くと、運転
手はどうやら食事を取り始めたようだった。

 と、雨がぽつぽつと当りはじめる。

「まいったな…とうとう降ってー」

 その時、寝室の方から小さな呻き声が聞こえてきた。
と、しばらく後で今度は乱暴にドアが閉まる音と共に、裏口から誰かが出て来
る。かなり慌てているその人影を、博士は生垣から覗きこむようにして見た。

 裏口から出てきたのは寝室にいた禿げた男ではなく、別の男だった。
暗くて良くは見えなかったが、家の中にいた男よりもずっと若い男である。
そいつはそそくさと隣の庭を抜け、繁華街の方へと向かって走り去った。

 博士と秘書はぼんやりとそれを見つめていたが、急に何かを思い出して寝室
の窓の方を見る。それまで部屋を落ち着きなくうろついていた禿げ男はそれき
り一度も姿を見せない…。

「まさか…!おい、早紀君。」

 博士は生垣から立ち上がると、男が走り去った裏口へと向かう。
慌ててそれを追う秘書はその背中に声をかける。

「博士…どうするんですか?」
「…中を見てみよう。ひょっとしたらあの男が…。」

 二人は雨脚が強まる中を、裏口から家の中へと入った。


 中は電気がつけられてあり、部屋全体が明るかった。
博士は急ぎ、二階への階段を上がると男がいた寝室へと向かう。

 二階の長い廊下には様々な民族関係の品々が飾られていて、とりわけ目を引
いたのが寝室の入り口にかけられていた奇妙な馬の首の彫刻だ。いや、馬では
なく鹿や麒麟なのかもしれない。頭に二本の角がついている。

 博士はその飾り彫刻をどこかで見た事があるような気がしていたが、その前
に今は寝室に急ぐのが先と思い、部屋へと入った。

「…博士、誰もいません。」

 寝室の中はもぬけの殻で、ちらちらと見えていた禿げ頭の男の姿はない。
特別あらそった形跡も、トラブルの跡も何もなかった。

 だが、飲んでいたグラスのお酒がべッド脇の棚の上に置いてあったが、グラ
スの中のお酒にまだ波紋が残っていた。ほんの今しがた、グラスをここへ置い
たばかりなのかもしれない…。

 博士と秘書が監視を続けて四時間近くになるが、この家にはあの禿げ頭の男
以外姿を見せてはいなかった。玄関に入った時も、一人分の靴しか置いてはい
なかったし、他に誰かが住んでいる気配も、この家からは感じられなかったの
だ。

「…何だか気味が悪くなってきましたね。」

 秘書がそう言いかけた時、博士は窓の外に見える生垣の辺りに先ほどの配達
用トラックが静かに移動してきたのが見えた。この家の玄関の入口を塞ぐよう
に止まった。

「帰りますか?博士ー」

 べッドに腰かけた秘書は、手をついた場所に何か衣類のような物が投げ捨て
てあるのに気がついた。ちらりと見ると中高年が好んで着るようなババシャツ
と呼ばれるような色をしている。

 

         

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 秘書はべッドに腰かけたまま、それを手でつまんで持ち上げてみた。
その素材は柔らかく、何だか生温かい。


 一瞬それが何なのか秘書には理解できなかったが、つまんだ物の裏側に人間
の髪の毛のようなものがついているのを見て慌てて床に投げ捨てる。

「…博士!これー」

 床に広がるように落ちた衣類のようなものには両手だけではなく、足もつい
ていた。そして驚く事に、秘書が髪の毛と思ったものはまさに髪の毛そのもの
であり、その僅かに下側には人の顔がついていたのだ。

 そう、先ほどまでこの部屋にいた禿げ頭の男の顔である。
その胸の部分には、縦に大きな亀裂が入っていて、まるで何かのキャラクター
の気ぐるみのようだった。

「これは…皮だ、あの男の、全身の皮だよ…!」


 その瞬間、家の明かりが全て消えた。


(続く…)