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怪奇小説・絵画・怪奇の世界!

夜の観覧者 最終話

 

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         35  時間を越えたまわり道… 


 10月8日 運命の夜…

 午前零時を僅かに過ぎた時、光輝く巨大な鏡より奇怪なものが這い出るよう
にしてホールの床に溢れだしてきた。それは一目散に叩き潰された男の血溜ま
りに向かって動き出す。

 それは一体だけではなかった。
もう一つの鏡からも溢れるように巨大で不気味な塊が二つ三つと…続々と鏡の
外へと這い出して来る。それらは皆似たような姿をしていたが、どれも一定の
定まった形を持ってはいない。

 その動きはこの世界のどんな生き物にも似ていなくて、そして見る者に恐怖
を与える姿をしていた。生物的でもあり、機械的でもあるその物体はホールの
中央で、鎌首を上げるように伸び上がった。身の丈は天井につくほどで、どこ
が頭なのか脚なのかも分からず、いや、そもそもそんな物すら”それ”には必
要なのか分からないほど奇怪な代物だった。少なく見積もっても、成長した
アフリカ像よりも巨大である。

 全身は黒っぽいトカゲの皮膚を彷彿とさせるような色をしていて、表面は
硬い体節を持った昆虫のようなごつごつとしたものだった。そして奇妙なくら
い光沢のあるそれは、元は人間だった男の亡きがらへと近ずいてゆく。

 目的はその血…である。

 

 

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「…今の内に彼を連れて五階へ降りて!あれは血に反応するわ!急いで!」

 光は涼子の傍に倒れている大男の刑事を指さして声を上げる。
彼は頭を怪我していて、僅かながら血を流していた。ここにいたら、間違いな
くあの物体にやられてしまう。

 急ぎ皆で大男を掴むと、五階へのスロープへと引きずるようにしながら移動
を始めた。

「光さん、君は何を!?」

 一人ホールに残る光に気がついた博士は、振り向きながら言って彼女の方を
見る。何か小さな箱のような物を手にしながら博士に向かって叫んで言った。

「…ちょっとした足止めよ!早く離れて!」

 そう言うと光は小さな箱のような物を物体の中心に投げつけた。
突如として箱から青い光が放たれ、黒いガスのようなものが噴出する。

 と、同時にホールの中が急激に冷え込み始め、嫌な匂いが立ちこめ出す。
この状況と同じものを、数年前に博士は体験している。

「デッドリーオルゴンか。」
「そうよ。せっかくやって来たここを嫌な場所に変えてあげるわ!食事も出来
ないくらいにね。」

 それは黒いオルゴンと言われた禁断の薬物だった。
オルゴンを反放射させる事で、エネルギーをマイナスの方向へと向かわせ、死
のエネルギーをこの世界に噴出させる闇の呪法だ。

 オルゴンの力の秘密を知る光は、これを使って化物どもの足止めをしようと
いうのである。

 光も加わり、皆で重い刑事を石畳の上を無理やり引きずりながら緩やかな坂
を下へと戻る。

 振り返ったホールの中は黒いガスに包まれ、冷気漂う死の空気に満ち始めて
いたが、ガスの煙を破って不気味な物体が勢いも良く、こちらに向かって飛び
出して来た。

「うっそー!?」
「…もっと嫌な場所に住んでたんだな、あいつら。」

 空中に鎌首をもたげるように止まると、突然口を開いたかのように拡がって
とげ状の歯がずらりと並んでいるのが見えた。その口で、哀れな餌たちにかぶ
りつこうと飛びかかって来た瞬間…

 またしても、目には見えないものが物体を上から叩き潰した。
化物の一つは潰れて見動きが出来ずにいたが、後から後から同じく餌を求めて
不気味な物体が飛び出してくる。

 だが、それも同じく見えはしなかったが巨大なハンマーを打ちおろすかのよ
うに次々と叩き潰してゆく。それを例えるなら、ゲームセンターのモグラ叩き
のようであった。

「…暗闇の魔女だ。」
「今の内よ!扉の外まで急ぐの!」

 スロープを降りきると、重い鉄の扉がすぐ傍に見えてきた。
その広い通路を振り返ると、僅か数メートル付近まで迫ってきた物体を攻撃す
る謎の打撃は、明らかに相手の数に押されてきている。今や広い通路は無数の
巨大な化物でいっぱいであり、その光景はまさに地獄そのものだった。

「…閉めるわよ!?」

 最後に光が通路を見た時には、ほんの数十センチ手前まで迫っていた。
だが、鈍い音と共に重い鉄の扉は間一髪のところで閉まり、仕掛けのロックを
施した瞬間、無数の化物たちが次々に扉にぶつかる激しい音が鳴り響いた。

 

 


 しばらくの間、誰も口を開かずにいたが、重い鉄の扉を背にしていた光が
声を出した。

「…見た?連中の大きさ…見た事も無いほど大きな昆虫みたいね。」
カンブリア紀の生き物みたいな感じがしたけど、それも違うな。まるで地球
の生き物とは思えない。」

 上半身を涼子に起こしてもらいながら、刑事の男が呟くように自分が見た
ものの事を話し始める。

「…さっき、六階のホールで倒れていた時に、僕はずっとあの大きな鏡を見て
いたんです。そしたら、鏡の向こうにもっと大きな身体を持った奴がこちらの
様子を窺っていました。きっと、出てきた連中よりも巨大な連中がまだ鏡の向
こう側にいるんだと思います。」

 男の話で、さらなる恐怖が皆の心に重くのしかかってきたその時…
通路に溢れた化物どもが、重い扉を強烈に叩きつけてきたのである。

「きゃあ!見て、扉が…!」

 鉄の扉が、数回ほど叩きつけられただけで、ぐにゃりと折れ曲がり、今にも
重い扉が取れそうな状況に陥った。開いた隙間から物体の不気味な触手のよう
なものがぬらぬらと五階の小部屋へと侵入してくる…。

「…だめ、連中がやって来る!こっちよ!」

 声を出した光はゴミの山になっている五階の部屋を走ると、近くの小部屋の
ような場所に皆を連れ込む。非常に小さなスペースで、正方形の作りになって
いる、どうやら昔の化粧室の一つらしかった。

「何なのここ?」
「いいから入って!早く!」

 それは通路の隅にあり、石壁で出来ていてそこそこ丈夫なものだった。
皆が無理やり小部屋に入ると同時に、鉄の扉が鈍い音をたてて壊れる音が響い
た。

 何か恐ろしい物が、五階のゴミだらけの広い部屋の中を騒がしくも蠢めいて
いる。幸いまだこの小部屋までは、連中の関心が向いてはいなかったが、完全
なる袋小路である…。

「……とりあえず、女性用化粧室らしいんで良かったわ。」

 秘書が博士の隣で窮屈そうに言いながら小部屋の中を見回す。
昔は高級ホテルとして使用されていたこのモラヴィア館で、化粧室の美しさは
ぼろぼろの五階の中にあっても、今だ健在だった。金箔が貼られた壁の模様、
大きな化粧用の鏡が一枚、床には埃が積もっているとはいえ、贅沢な絨毯が敷
かれていた。

 が、僅か公衆電話より少し大きいくらいの小部屋に、博士に秘書、光に涼子
、夏美に菫、さらに千枝子…おまけに身体の大きな若い刑事までが同じスペー
スに立ったままのぎゅうぎゅう状態だった…。

「…さすが東京。こんなとこでも満員電車の気分が味わえるんだからね。世知
辛い世の中だ…。」

 囁くほど小さな声で博士が隣の秘書の耳元で話した。
小部屋の外はどんな事になっているのか分からなかったが、大きな音を立てる
のは危険な事だと皆が理解していた。

 この恐怖の状況の中、誰もが囁くような声で耳元で喋りあい、満員電車の
ごとくぎゅうぎゅうのすし詰め状態で、小さな小部屋の中はうら若い女性の
良い匂いで一杯だった。おまけに汗ばむほど蒸し暑い…。

「…この状況は、かなりまずいわね…」
「…あなたがここに入れたんでしょうが。何がまずいっていうのよ?」

 涼子の言葉に、頭一つ背の高い光は身をよじりながら小さな声で答える。
非常に語り難そうにしながら。

「あの…私ってものは…身体に触れられるの凄く弱いー」

 光が赤面しながら言うやいなや、隣の秘書は彼女のスカートの中に手を入れ
くすぐる…。

「ダメじゃないですかー博士。スカートの中に手入れちゃ。」
「い、いや…俺は何も…」

「……いっ!?」

 

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 その瞬間、暗い小部屋内に電気のライトが点いたかのような激しい明るさが
発っせられた。もちろん、光の瞳…まぶたに塗ったオルゴン液が本人の性的な
興奮により発っせられる不思議な力…オルゴンの輝きである。

「だから、博士ってば…。」
「いやいや…俺は何もしてなー」

 その強烈な輝きは、小部屋の外の連中にはまさに目印となった。
ドアの傍にいた化物が突然小部屋の壁に身体をぶつけてきたのである。

「…これは、ほんとにやばいわよ…!」
「ちょうどいいじゃない、ほら光さん、オルゴンの力で外の化物ぶっ飛ばして
きなさいよ!?」
「私これでもいちよ人間なのよ!?あなたもアレ見たでしょ?」

「お母さん…。」
「菫さん、私ね、ここで最後だとしても…なんか悪くないかなって思うよ。」

 そう言いながら夏美は隣の菫の手を取り、自分の傍へと引っぱる。
その母親の顔を見つめながら、菫は思った。自分の運命というものは、ここで
母親と共に死ぬためだったのだろうか…?それとも、まだ何か自分がここまで
奇妙な人生を歩んできた、他の運命があるのだろうか?

 菫は十数年前、この街へやって来た時に坂崎神父に貰った胸のロザリオを
握りしめ祈った。


 まさに袋小路、誰もがもはやここまでか…という考えが頭をよぎったその時
…誰ともなく、皆が寄り添うように集まりかたまる。

「…頭の傷、大丈夫?」
「ええ、ですが…来週にデートが出来なそうな気がするのが残念ですね。」

 頭の傷を押さえながら大男の刑事が涼子に言った。
涼子は答える代わりに、男の手を掴み無言で握りしめる…。


 光はふと隣に立つ千枝子の細い肩に自分の腕を回すと、少しだけ寂しそうな
笑顔を見せた。光の表情からその様子は皆には分からなかったが、千枝子には
彼女が心の中で泣いているのが感じられた。

 不安と無念さ…?そして大きな心残り、だ。

 いや、光だけじゃない、夏美も菫も、涼子も大男の刑事も、秘書の女性も、
みな心の中で泣いていたのだ。

 

 


 ………?

 

 ……おや?と千枝子は思った。
あの”おじさん”は…一体何故、彼らと一緒に泣いていないのだろうか?と。

 あの博士と呼ばれるみすぼらしい姿をしたおじさんは、見ため不安な表情を
醸し出しているのとは裏腹に、ひどく心は穏やかだった。そして、一度も彼は
自分の方を見ていない…。

 一度も見ていないというのは、むしろ意識している証拠である。
そう言えばこのおじさんは、最初から…そう、最初から自分を意識していた。

 こうも言ってた、彼らは自分たちの推理が偶然の産物であると。

 彼女は知っている。

 偶然や奇跡という現象は、この宇宙に確かに存在するが、それは何度も続く
事はないのである。偶然というものが数度も続くというのは、準備して種を蒔
いてきた者のみが起こせる奇跡なのだ、と。

 …彼はどうして、自分たちが助かると思っていたのだろうか?

 

 


【無料フリーBGM】ポップなゴシックオーケストラ「Undertaker」

 

 

 

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「…一つだけ、助かる方法がある。」

 小部屋の外で怪物が激しく石壁に身体をぶつけているその時…ふいに、これ
まで黙っていた千枝子が小さな声で言った。全員がその言葉に驚き、彼女を
一斉に見つめる。

 千枝子はいつのまにか髪をストレートに降ろしていて、これまでの幼い印象
とは雰囲気が変わって見えていた。

「ほう、どんな事かね?」

 秘書を後ろから抱きしめる体勢の博士は、にこにこと笑みを浮べて言った。
石壁の向こうは化物が集まってきていて、とんでもない事になりつつある。

 

「…六階の大鏡の中にいる存在、扉を開くものは別の時間・別の空間から来た
異物なんです。それを異次元の彼方へと戻すには、同じく別の時間・別の空間
から来たものとの直接的な接触しかありません。それがお互いの反発作用によ
って大きなエネルギーを生み出し、ここから別の時間や空間へと飛ばす事が
出来るんです。」

 長々と難しい事を並べて話す千枝子の言葉に、光はあっ、という表情を見せ
ながら言った。

「そうか!反発の力…それならアレを異次元の彼方に送り返せるかもしれない
わね!でも、別の時間・別の空間から来たものなんて…そうそう見つかるかし
ら……いや、いたわ…!」

 
 光の言葉に皆も同じ事をほぼ同時に思い、今度は菫の方を一斉に見つめる。
菫にもその言葉の意味が理解出来た…。


「……私、ですね。」

 そう、六階の鏡の中からやって来た異世界の住人たち…奴らがこの世界の
異物であるなら、時間を越え飛ばされてやって来た菫もまた、この時間軸に
とっての異物であった。

「あの…私がアレに接触すれば…お母さんもみんなも助かるの?」

 菫の言葉に、黒髪の少女は表情を曇らせながら無言で頷く。
彼女ら母娘の関係は、誰よりも千枝子にはよく分かっていたからである。その
異物同士の接触が、どんな結末をもたらす事になるのかも…。


「…ダメよ、ダメっ!そんなのはダメよ菫さん!」
「お母さん…。」

 これにいち早く異を唱えたのはもちろん母親の夏美である。
あんな化物に直接接触して飛ばされる…なんていう事は、それは即ち菫が犠牲
になる、という事で…夏美は猛烈に涙を浮かべて反対した。

「自分の娘が犠牲になって、助かったからって喜ぶ母親なんているわけないじ
ゃない!そんなの絶対にダメよ……!」
「お母さん!聞いてっ!」

 一際大きな声で菫が言うと、夏美は驚いて騒ぐのをやめる。
菫はすぐに穏やかな表情に戻り、静かに説明を始めた。


「…このまま何もしないでいたって、どのみち私たちはお終いでしょ?でも、
私一人で救われるのだったら…お母さんも助けられるんだとしたら…そのため
に行動したいの。」
「でも…!」

「…私は元々死ぬために東京の街へやって来たの。私は未来でとっくの昔に
死んでいた人間…本来、私はこの時間にいてはいけない存在なの。間違った事
を正すだけの事なんです。それに私は神に仕えるシスターなのよ?皆を、この
世界を救う事が出来るなんて、これ以上ないほど幸せなことなの。」

「…私は世界よりあなたの方が良い…!」
「ありがとう、お母さん。でもこの時間で、いつかお母さんは”私”を授かる
訳で…”私”がここに存在したら、やっぱりおかしいでしょう?間違ったもの
を軌道修正するだけなのよ。分かって、お母さん…。」

 当然の事ながら夏美は納得していなかったが、それ以上反対もしなかった。


「…でも、問題はどうやってまた六階の大鏡の前まで戻るか、だわね。」

 と、その時、石壁に亀裂が入るほどの衝撃があり、化粧用の鏡にひびが入っ
た。そこから微かなすきま風が小部屋へと吹き込んでくる…。

「そうだ、マジック・ミラーだ!光さんー」

 博士が言うと、光もすぐにその事に気がつき、拳で鏡を割った。
案の定、他の階と同じように鏡の裏には通路が存在していて、覗きこむと通路
は上に向かって続いているのが見える…。

「…よし、行けそうだわ。みんな急いで!」


 人一人がやっと通れるほど狭い通路に全員が入ると、上に続く道を急ぎ足で
駆けだす。しばらく進むと上の方の通路が淡くぼんやりと光っているのが見え
てきた。それは先ほど見た、ホールの壁二面にかけられていた大鏡の一つ、
その壁の裏側で、鏡は案の定マジックミラーになっており、裏側からホールの
中が見えている。

 正面に見えるもう一枚の大鏡に、先ほど見た怪物たちよりもさらに巨大で、
不気味な存在が映し出されていた。

 その無機質な青い目、と思われるものはこちらを凝視するように大鏡に近ず
いてきて、巨大な触手のようなものがホールに溢れだしてきた。恐らく身体の
一部であろうと思われるが、鏡の向こう側にどれほどの巨体を隠しているのか
は想像もつかなかった。

 

 

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「あれがそうです。数万年前からこの地球を密かに見ていたもの…虎視眈々と
こちらの次元に近ずく時をじっと待っていたものたち…。」

 奇怪な物体を指さしながら千枝子は言うと、その傍へとやってきた光がそれ
を見ながら吐き捨てるように呟いた。

「…確かに、どう見ても”歓迎されないもの”たち…だわね。」

 目の前の、その驚くべき存在は人間の科学や哲学の構想範囲内にあるいかな
るものによっても到底理解できないものだった。我々人類が日常生活を送って
いる時間と空間の背後には、恐怖の「物」が潜んでいるのだ。


 ホールの中には先ほど追いかけてきていた化物の姿は無く、千枝子が提示し
た行動を起こすには今しかチャンスは残されていなかった。

「…時間はないわよ?菫さん、いいの?」
「はい。皆さん、お母さんをお願いします。」

「菫さん、頑張って!」

 秘書は握り拳を作って、別れの言葉をかけた。
菫は無言で敬礼のポーズをとると、にっこりと微笑む。

「…気をつけて帰るんだよ。向こうでも頑張って。」

 何かとんちんかんな言葉をかけてきた博士に、菫は小首を傾けながらも、
ささやかにお辞儀をして言った。

「光さん、お願いします。」

 光は菫の言葉を聞くと、助走をつけ大鏡に蹴りを見舞った。
巨大な鏡は乾いた音を立てて割れ、ホールへとばらばらに飛び散る。

 

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 菫は素早くホールへと駆けだすと、たった一度だけ立ち止まり皆の方を振
り向き大きな声で元気よく声を出した。

「…お母さん、あんみつ美味しかった!楽しかったよ…ありがとう!」

 
 いつでも涙を浮かべていた彼女は、最後まで涙を見せる事はなかった。
それだけ言うと菫は正面の大鏡に向かって駆けだしていく…後は一度も振り
向く事なく…。


 その姿を一番後ろで黙って見つめていた夏美は、突然、菫を追いかけ走り出
した。

「夏美さん!ダメ…!」

 一瞬早く、光が夏美にタックルをかまし、ホールの中央付近で掴み倒す。

 その時、夏美は何かを叫んでいた気がするが、菫が大鏡に触れた瞬間の物凄
い閃光と音で全ては掻き消されてしまったー。

 彼女の方に伸ばした自分の手が、閃光で見えなくなってゆく…。

 

 

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 今まで聞いた事も無いような不気味な吠え声というか、鳴き声のようなもの
モラヴィア館全体に響き渡り、地鳴りの様な激しい音と振動が起こり、目が
潰れてしまうくらいの激しい光で、ホールにいた全員は目も開けられずにその
場に倒れ込んだ…。

 


 ほんの数秒か、あるいは数十秒か…。

 

 徐々に光は弱まっていき、そして唐突に消えた。
後には鏡の発光も、奇怪な物体も…まるで何も無かったかのように、全ては
消えていた。

 だが、夏美は冷たい石の床に顔をつけ、光の身体に覆いかぶさられながらも
大鏡の前に一足だけ残された、菫の真っ白なスポーツシューズが脱げ落ちて
いるのを見て、全ての事が現実だと知った…。


 そのモラヴィア館の暗闇と静寂の中、夏美は床にうつぶせになったままの
状態で、闇に浮かびあがるほど真っ白なシューズをいつまでも力の抜けた目で
見つめていた。

 

 


 午前一時を過ぎた頃、博士や涼子らがモラヴィア館の窓から外を覗き込むと
、街の停電がいっきに復旧してゆくのが見えた。いつもの大都会らしい街の明
かりに、涼子らはいくらか表情が和らいでゆく。

「…おい、あれほどいたスナイパーがどこにも見えないぞ?」

 窓から用心深く外を見つめていた博士も、何かが大きく変わっている気配を
感じていた。道路にちらほらと出てきた人の姿も見えはじめる。

「ほら、見て!窓が開くわ!」

 光が言って部屋の窓を開ける。
外からは夜の冷たい風が入ってきて、心地良かった。


 博士と光、涼子の三人は、モラヴィア館の入口まで降りると、玄関のドアを
開け用心深く外を窺う。スナイパーの姿はどこにも見えず、街はいつものよう
に車や人が動きだし始めている。

 しばらく夜の風にあたりながら、博士らはぼんやりといつもの活気を取り戻
しつつある街を眺めていた。


 そこに、けたたましいエンジン音を立ててやって来る一台の車が見えた。
その車は猛スピードでモラヴィア館の入口までやって来ると、急ブレーキを
かけて止まった。

 それは真っ赤なフェラーリで、運転席から降りてきたのは光や博士には馴染
みの顔だった。

「薫ちゃん!大丈夫なの!?」

 慌てて玄関口まで走ってきたのは理事長の須永良美であったが、光や博士が
驚いたのは彼女のその服装だった。

 

 

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 それはどこからどう見ても、可愛らしいメイド服で、とても四十過ぎた女性
が普段着で出掛ける服装ではなかったからだ…。

「………ちょ、良美ちゃん、何なのそのかっこう…。」
「…話せば長くなるのよ…それよりね、どう?事件は解決した?」


 光は簡単ではあるが、やって来た良美に事の結末を説明した。
彼女は驚きを隠せずにいたが、小さく頷いてみせ、安堵の表情を見せ言った。

「そう…終わったのね。外の問題もすぐに解決しそうよ?下柳グループの連中
はこの件をもみ消し始めているの。館のスナイパーも、全て引き上げたって話
よ。」

 おかしな姿で説明する良美に、光は唖然としながら聞き返した。
下柳グループが事件をもみ消し始めているのなら、なおさら自分達を野放しに
はしておかない筈だ。全ての事実を知っている自分達を…。

「引き上げたって…じゃあ、私たちもう狙われたりしないって事?なんで?」
「…さあ、何でかしら?」

 人差し指を顎に当て、可愛らしいポーズで小首を傾けとぼける四十過ぎの女
を見ながら、光は何かに気がついような表情で良美に言った。

「…あなた!まさか、また誰かそそのかしたんじゃー」

「ええ、下柳会長の息子が無類のメイド好きという情報を仕入れたのよ。それ
でちょこっとコンタクト取ったら…すっかり私にお熱あげちゃったのよ、彼。
ま、無理もないですわ、この美貌ですものね?会長亡きあと、彼が全ての下柳
グループの実権を握ったの。会長の起こした問題は全て自分が処理してくれる
って約束してくれたわ。もちろん、彼の恥ずかしい証拠も握ってるから…約束
を破棄にはしないと思うの。あら、この方はどちら子さん?」

 刑事の自分を前に、たまげはてた恐喝まがいな話をべらべらと並べる良美を
唖然と見つめる涼子は、とても四十過ぎのおばさんとは思えないほどのルック
スの良さに、呆れるよりも、なぜか魅力を感じてしまうのだった…。

「…ほんとに、あんたって女は。」

 悪友の奇行に、呆れ顔の光はため息をついた。
しかし当の良美は急に真顔に変わり、光の手を取り言った。

「あたしだって、親友は大事なのよ?私に出来る事で、あなたたちを助けたい
と思ったのよ。それ以上の目的なんてありゃしないわ。」

 涙目の真剣な表情を浮かべる良美を見て、光はつい吹き出した。

「ええ、分かってるわよ。ありがとう、良美ちゃん。」
「明日一緒に帰ろう?送っていくわ。真理さんも一日だけ早く帰って来るっ
てよ?良かったわね。」
「へえ、ほんと?それは楽しみだわね…!」

 光は彼女の名前を聞いて、それまで色々押さえていたものが吹き出し、涙が
溢れた。まだ自分が生きてる事に感謝しながら…。


 秋の夜風が心地良い大都会の街並みに背を向け、彼らはまたモラヴィア館の
中へと戻っていった。

 世紀の天体ショーと言われた今夜、惑星直列の大騒動は、多くの人々に知ら
れる事も無く、ようやく終わりを告げたのである。

 

 

 

 


【無料フリーBGM】悲しいオルゴール「Music-box_Sad」

 

 

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              エピローグ~

 

 朝日がたっぷりと入り込む部屋を振り返り、夏美は荷物を手に僅かな時間を
過ごした場所を見つめた。部屋の隅には、菫さんと一緒に飲みほしたワインの
瓶がいくつか倒れている。

 たった数日しか住んでいなかったこのモラヴィア館での日々が、忘れられな
い出来事として夏美の心に記憶されていた。恐ろしくも悲しい出来事ばかりで
はあったが、彼女との楽しい思い出はきっと一生忘れる事はないだろう…。

 部屋の外に出ると、ごっつい姿の管理人がやって来て、夏美は部屋の鍵を
彼に手渡した。今日のうちにこの館を出て行くのだ。

「もう行くのかい?行く先が決まってからでもいいのに…もっとも、誰もいな
くなっちゃったしね。この館の住人…。」
「それじゃ、お世話になりました。」

 夏美は、少しだけ寂しそうな表情で見送る管理人に礼を言うと、荷物を手に
部屋を出て行った。一度こうと決めたら行動するところは、変わらない彼女の
性格である。


 階段を降り三階へとやってきた夏美は、菫が十年近く住んでいた部屋を覗い
て行こうと寄り道をした。


 部屋の中は何度見ても何もない寂しげな部屋で、彼女が十年近くこの部屋
で何を考えて暮らしてきたのか?を考えると、夏美はとっても堪らなくなる。

 くたびれた冷蔵庫を開けると、小さな牛乳パックが一つだけ残っていた。
近所のスーパーで食事をした帰りに買い物をした時、遠慮がちに菫が一つだけ
かごに入れたのがこの小さな牛乳パックだった。何でも品物が揃ってるお店の
中で、彼女は特別な物でなく、自分がいつも飲んでる牛乳を一つ選んだのだ。

 涙がこぼれる前に、夏美は冷蔵庫の蓋を静かに閉める。


 未来の少女時代の菫はずいぶんやさぐれていたという。
だけど、自分が病気で死んだ後すぐに、彼女は私の後を追うように命を捨てる
覚悟で東京へ向かったと告白した。

 どこまでも欲の少ない娘だったのだ…夏美はこの部屋を見てそう思う。


 べッドに腰をかけ夏美はポケットの煙草を一本口に咥え火を点けた。
昨夜、光に言われた事を思い出したが、涙が頬をつたい夏美はやっぱりやめら
れずに、煙草の煙を大きく吐き出すと急ぎ足で菫の匂いの残る部屋を後にし
た…。

 

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 皆と別れの挨拶を交わしたあと、博士と秘書は喫茶ラ・テーヌの入口を覗い
た。すでに店じまいしており電気は消えていたが、入口の扉は開いていた。

 博士はドアを開け中を覗いたが、やはり千枝子の姿は無かった。
昨夜、家に帰るという話をしていたが、おそらくそれは嘘だと博士は確信して
いる。

 何故なら、あの子に帰る家などある筈が無いからだ。
涼子と大男の刑事二人との別れ際、彼女の戸籍やデ―タが一切存在していない
ことを聞いた。

 薄暗い陰気臭い店内を見回して、秘書はコートのポケットに両手をつっ込ん
でいる博士の裾を引っぱりながら一言だけ呟いた。

「…博士、もう帰ろう。」

 と、振り向き返事をしようとした博士は、カウンターのテーブルにある物が
置いてあるのを見て眉毛を片方上げる。

「おい、早紀君…あれー」

 カウンターに置かれてあったのは二つの食器皿で、厚焼きフレンチトースト
がそれぞれに乗っていた。おまけにメイプルシロップがたっぷりとかけてあり
、ほのかに熱がある…。これを作ってから、それほど時間は経ってはいないと
いうことだ。

 おまけにコーヒーも入れてあり、湯気も立っている。
シロップの甘い匂いと、インスタントながら豆の香ばしい匂いが店内に漂って
いた。

 

 

 


エーデルワイス(Edelweiss) オルガニート20

 

 博士と秘書は顔を見合わせて、にんまりと笑う。
そしてカウンターに座ると、ささやかながら楽しい朝食をいただいた。

 

「博士、あの子が暗闇の魔女だと、なぜ分かったの?」

「下柳ビルで、私の傍を通り過ぎた時、このコーヒーの匂いがしたからさ。
それと、あの時…歌声が聞こえた気がしたんだ。エーデルワイスだよ。」

エーデルワイス?って、あの?」
「そう、エーデルワイス。別名セイヨウウスユキソウ、この花さ。」

 博士の指す先には、小さな花瓶に咲く白い花があった。

 

「彼女は迷っていたんだ。血の六芒星を完成させ、邪悪な思想の連中に復讐
する…最終的にモラヴィア館に住む菫さんが異次元の連中を追い払うことが
出来ると知っていたんだが…これは私の推測でしかないが、人として生きる
間に彼女…暗闇の魔女は人間の心に近ずきすぎたんだと思うんだ。」

「ああ、そうね。優しい子だったわ。」


 コーヒーを飲みほし、博士は手を合わせて感謝すると椅子から立ち上がり、
出口の方を振り向く。

 と、博士は立ち止り、眼を大きく開き正面の壁を見つめる。

 そこには、メッセージが壁一面にメイプルシロップで書かれてあった。
さっきここへ入った時には無かったものである…。

 

         ” バイバイ! 楽しかった! ”


 博士は日本語で書かれたそのメッセージを見て、秘書と共に顔を見合わせ
笑った。

 いつから存在していたか定かではない伝説の「暗闇の魔女」は、きちんと
二人の探偵にお別れの挨拶をしていったのである。彼女なりの精一杯のもてな
しと、ユーモアを込めて…。

 

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            菫 (20??年)


 激しくつむっていた両目をゆっくりと開けた時、徐々に視界がひらけてき
た菫は、自分が見覚えのある場所に立っているのが分かった。

 郊外にある並木道…小さい頃からいつも通ったあの懐かしい道…。
その先には、小高い丘の上に二十まで暮らした小さな我が家が見える。

「…私、どうして…?」

 どうやって自分が元の時代に戻ったのか?まるで分からなかったが、ここは
間違いなく自分が暮らしていた場所だ。

 ぼんやりと放心状態の菫は、靴が片方無い事に気がつく。
どうやら、あの大鏡の前で脱げてしまったのだろう…。


 しばらく並木道の木で出来たベンチに腰を降ろし、菫はぼんやりと空の雲を
眺めていた。

 何だか凄く長い夢を見ていたような気がして、菫は自分が元の世界に帰って
来たという感激もなく、とにかく抜け殻のように景色を眺めていた…。


 …おや?と菫は思った。
何か昔と違うな、と彼女は思い、辺りを見回してみる。

 かつて荒涼とした灰色に覆われていた空は、気持ちの良い青空が広がって
いて、草花が育ちにくい環境だった土地に、僅かだが花が咲いていた。明らか
に菫には何かが違って見えたのである。

 菫はベンチから立ち上がり、廃墟と化した東京の方角を見るー。


 丘の上から見える東京は廃墟ではなく、今だに活気溢れる街並みが広がって
いたのだ。自分が少女時代を過ごした未来の暗澹たる世界ではなかったのだ。

”…そうだわ、きっとあの後…東京の街は救われたんだ!お母さんたちも、
あの人たちも、みんな助かったんだわ!”と。

 そうでなければ、このような美しい景色が目の前に広がっている筈がないと
菫は思った。


 菫は何だか嬉しくなって歩きだした。
自分の我が家に向かって…長い、とても長いまわり道をして、自分の生きる
本来の世界へ戻ってきたのだ。

 
 だけど、お母さんがいないこの場所は、菫にはちょっぴり寂しい里帰りに
なりそうだった。

 

 

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              30年後…夏美 


 目を覚ました時、夏美は家の床の上に倒れていた。
おそらく歩いていてまた倒れたのだろう…ここ最近は病気の症状が悪化してい
て、めまいを起こして倒れる事が多くなっていた。

 ゆっくりと身体を起こし、這うようにしながら夏美はべッドへと戻る。

 今、夏美は五十を過ぎていて、けっきょく若い頃からの喫煙と酒という悪
習慣で身体はぼろぼろだが、医者にはきちんと入院して看護を受ければ充分
病気は直せると言われていた。

 だが、夏美はもう充分だと思った。


 あの運命の日…菫が自分の目の前で消えたあの日を境に、夏美の運命は坂道
を転がり落ちるように悪いものになった。

 事件以降、自暴自棄になっていた夏美はある男と再婚して子供を授かった。
だが、生まれたのは男の子で、その子も三歳の時に流行り風邪で亡くなってし
まう…。

 どうしてあの子が…菫が生まれて来なかったのだろう…?
あの夜、自分達が変えた運命が彼女の存在そのものを消してしまったのかも
知れない…。

 夏美は精神を病み始め、またしても結婚生活は上手くいかずに離婚。
おまけに病気がちになり数十年が経った…一人の友達もなく今に至る…。
治療を受けてこの先も生きてゆく気力が、今の夏美にはすでに無くなってい
たのだ。

 べッドに横になり、棚の上に置かれたずいぶん汚れて黒ずんでいるシューズ
を見つめて夏美は遠い日の、菫の事を思い出す…。彼女が片方だけ残していっ
た真っ白なスポーツシューズ…今は数十年が経過して真っ黒になっているが、
ずっと大事に夏美が傍に置いてきた宝物だった。

 だって、あの子の物は、これしか残っていなかったのだから…。


 夏美はその黒ずんだシューズを手に抱え、べッドから立ち上がった。
そしてテーブルの上に置いてあった果物ナイフを震える手で掴む。これ以上、
一人で生きていくのは夏美にはもう限界だった。

 あの子の…遠い昔、自分達を救って消えた菫のところへ…

 

 その時、玄関の扉が開いた。

 外の日の光が眩しいくらいに家の中へと差し込み、ずっと外に出ていなかっ
た夏美にはしばらく目が慣れるまでに時間がかかった…。


「…あの、こんにちは。誰か住んでいらっしゃいますか?」

 まるで夏美にはそのシルエットが、神々しい天使のように目に映っていたが
、そこに立つ者は夏美にとってはそれ以上の存在だったー。

 夏美は手にしていたナイフを床に落とした。

 

 

 


【無料フリーBGM】切ないピアノソロ「Piano_Melancholy」

 

 

 

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 夏美の前に立っていたのは紛れもなく、あの日、目の前で光の中へと消え
た娘…菫の姿そのままだった。

 黒い修道服姿に、片方の靴が脱げている。
そう、もう片方の足には真っ白なスポーツシューズを履いて…。


 夏美は声も出ないほどに驚き、そして、ただ涙がこぼれてきた。

 菫にも、目の前の初老の女性が自分のよく知っている人物だと分かるのに
時間はいらなかった。知らずのうちに涙が溢れる。

「……お母さん!」


 小さな家の大きな柱時計の手前で、子供のように泣きながら自分に抱きつい
ている菫を見降ろしながら、夏美はいつか誰かが言っていた言葉を思い出して
いた。


 …気まぐれな神は、しばしば間違いを正すために試練のいたずらをするの
だ…そうだ。


 暖かな菫の抱擁に包まれて、夏美はもう少しだけ生きてみようと思った。


( 了 )