ザ・怪奇ブログ

怪奇小説・絵画・怪奇の世界!

夜の観覧者 15話

 

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            15  血文字


 10月7日 金曜 正午…

 菫がもう一度眠りにつくと、夏美は皆が戻るまで少しモラヴィア館の中を見
て回る事にした。考えてみれば、ここに来てから館の中をじっくりと回った事
もないなと思い、菫の部屋を後にする。

 三階にある305号室を出ると、304号、303号と廊下を挟み交互に部屋
が並んでいて、この階には確かウェイトレスの千枝子も部屋を借りている筈
だった。彼女は夜ずいぶん早くに就寝するそうで、昨夜も歓迎会のかたずけを
した後、すぐに自分の部屋へと戻っていった。今頃はすでに起きているだろう
か?

 夏美は303号室のドアをノックしてみたが、しばらくしても中から返事は
なく、きっと下の喫茶店にいてぼんやりと退屈な時間を過ごしているのだろう。

 やはりこの階の廊下の壁にも鏡がたくさんかかっており、そのいずれも合わ
せ鏡になっていた。夏美は螺旋階段までやって来ると、一つ下の階へと階段
を降りて行く。

 二階には昨夜歓迎会でピアノを演奏した色白の青年と、白髪まじりの初老の
男性の部屋がある筈だ。二階の廊下も上と変わりない作りで、鏡がたくさん壁
にかけられてあり、薄暗い電気は消えかかっている。

 すると、一番手前にある201号室のドアが開いていて、ちょうど色白の青年
が廊下へと出て来た。


「あっ、おはようございます。どうしたんです?」

 青年は出掛け用の帽子を被り、二階の廊下で人とすれ違うという事に驚きの
表情を浮かべている。

「いちよね、皆さんがどの部屋に住んでおられるのか知っておこうと思ったの
で。館の中を見学がてら…。」

 青年の肩越しに、開いたドアの向こうが見えていて、部屋の中の様子が少し
だけ見える。見るとマネキンが数体置いてあり、その頭に明るい色のかつらが
乗っていた。部屋の中はカーテンが閉められていて、朝だと言うのにひどく暗
い感じがする。

「ああ、僕はブティックに勤めてるんですよ。色々と勉強することもあるんで
置いてあるんです。珍しいですか?」
「ああ、そうなの。これからお勤めなのね?行ってらっしゃい。」

 彼は自分の部屋のドアに鍵をかけると、夏美に挨拶をして螺旋階段を降りて
行った。


 この階にはもう一人初老の男性が住んでる筈だが、夏美は一度下のカフェに
降りてみようと思い、向きを変えて歩き出した。

 その時、視界の端っこでほんの一瞬、横にかけられてある合わせ鏡に何か
が横切ったように見えた。慌てて廊下を見回したが、動くものは何もなく辺りは
静寂に包まれている…。

 夏美は何かが横切ったように見えた鏡をじっと見つめた。
いくつ見えるのか分からないが、ずっと続いている自分の姿を見つめながら、
夏美は昨夜からの奇怪な妖怪話を思い出し、鏡から視線を外すと一人吹き出
して笑った。

”…確かに、元の旦那や弁護士たちが殺人事件に関わっていたのだとしても、
そこに魔女だとか、妖怪の類が関わっているなんていう話はナンセンスだわ。
そう、本当に恐ろしいのは人間…人間の心の中にあるものよ。人智を越えた
ものでも、悪魔や天使でもない。現実の害悪だけよ…。”

 きっと菫さんの見た夢も精神的な悪夢のようなもので、もう少したてば何の
痕跡も証拠もなく、涼子ちゃんたちも戻ってくる筈よ。

 そう思いながら夏美はもう一度、合わせ鏡に視線を戻した…

 

 

 

 

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 そこには先ほどまでは無かったものが、鏡いっぱいに書かれてあった。
赤いペンキのようなもので書かれた文字は、『 spectator 』と英語で記さ
れていた。たった今まで、何も書かれていなかった鏡の中心に、である。

 夏美は目の前の鏡を、驚きの眼差しで見つめた。
ほんの数秒、目を離した間に…一体どうやって?そんな事は不可能なのに!

 と、鏡に書かれた赤い文字が、涙の痕のように下へと滴り落ちて行く…
夏美はその滴る痕を指で触ると、ぬるぬるとした覚えのある感触がした。

 …血だ…!血で書かれた文字…。
それが僅かに目を離した数秒の間に、まるで浮かび上がるかのように現れた
のである。


 夏美は急に背筋が寒くなってきて、その場から急ぎ足で離れた。

 

 

 


 板橋駅から電車に飛び乗った秘書の早紀は、さっそく光へとメールで警察へ
通報した事を告げると、携帯を閉じてからほっと一息ついた。

 降りる駅までは二つほどの距離だったが、秘書は久しぶりの東京の景色を見
るため顔を上げて車内を見回した。朝のラッシュは僅かに過ぎていたが、人は
たくさん乗っている。

 通勤途中のサラリーマンにOL、学生に派手な服を着た若者たち。他にも、
お年寄りや主婦と様々な人たちが乗っているが、皆一様に下を向きながら携帯
や小説などを見ている。会話をする相手のいない者は、ほぼ確実に携帯か本を
手に自分の世界に浸っていた。


 すると隣の車両から二人の男がやってきた。
彼らは隅の開いた席に腰を降ろすと、目だけを動かしながら車両内を見つめて
いた。もちろん、秘書には見覚えの無い顔である。先ほど駅の公衆電話へとや
って来た二人連れでもない。

 二人は電車に揺られながら会話する事も無く、携帯を開く事もなかった。
明らかに他の乗客とは雰囲気が違って見える。こんな電車内で携帯も開かず
に車両内の様子を窺う者など、他に”博士”くらいのものだ…と秘書は思った。

 ふと、秘書は二人の男たちと一瞬だけ目を合わせてしまう…。
すぐに視線を外した秘書だったが、彼らはしばらくこちらをじっと見つめていた。


”…もしかして、私たちの人相が向こうに知れているとしたら?きっと私の
降りる場所で、彼らも降りる筈よ…なら…”


 秘書は緊張しながら、次に停車する目的の駅が近ずいているにも関わらず、
まるで降りるそぶりも見せずに座っていた。電車が止まり、ドアが開いて人が
降りて行く…。 

 そしてドアが閉まろうとする頃になって、秘書は素早く立ち上がり電車を降
りた。後ろを振り向くと、閉まったドアの所で二人の男が外に出ようと慌てて
いるのが見えた。

 僅かな時間のあと、ドアが開いて彼らがこちらに向かって走り出してきたの
を確認すると、秘書は急いで階段を降り改札口へと走った。明らかに向こうも
自分の事を、通報してきた人物だと判断したのかも知れない。

 それほど大きくない駅の改札を抜けて、正面出口へと向かって走る秘書は、
人ごみをかきわけながら一刻も早く駅から離れようと急いだ。振り向くと、例
の二人組みがこちらに向かって慌てずに小走りでやって来る。是が非でも自分
から何かを聞き出そうと言うのか?それとも、単に口封じのためか…

 

 

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(…冗談ではないわ…!)

 駅の外へ出ると、繁華街へ向かう大通りに続いているが、通りへと向かうた
めには信号を待たないといけない。当然、信号待ちをしている時間などはなか
った。一瞬どうしようかと立ち止まってしまった秘書の耳に、道路に止まって
いた赤いスポーツカーのクラクションが響く。

 見ると運転席には見覚えのある女性が乗っていて、こちらに向かって手を振
っている。秘書は車の方へと走って行く。

「…乗って!」

 運転席から声をかけてきたのは、聖パウロ芸術大学の理事長、そして自分た
ちの依頼主でもある、須永良美であった。

 車は左ハンドルだったので、秘書は右側からドアを開けると座席に転がり込
むように乗り込んだ。車の外には二人の男たちがすぐ目の前まで迫ってきてい
たが、運転席の女性は彼らに礼儀正しく笑顔で会釈すると、車を物凄い音と共
に急発進させた。 
 
 信号が青に変わった道路を、秘書と須永理事長の乗った車は猛スピードで駅
から離れて行った。

 

 

 

 急ぎモラヴィア館へと戻った涼子たちは、車を降りると辺りを見回しながら
正面の入口へと走る。だが、何者かの襲撃を予想していた涼子だったが、博士
が言っていた通りに、何者も待ち伏せする事も無くモラヴィア館へと戻ってこ
れた。

「…どうしてここに、誰も待ち伏せしていないと予想出来たの?」

 涼子は眉毛をしかめて、後ろからコートのポケットに両手を入れながら歩い
てくる博士に質問した。

「その分、彼女が危険か…光さん、理事長から連絡は?」
「メールが来てる…駅で彼女を拾ったそうよ。もう大丈夫ね。」

 博士はそれを聞くと満足そうにモラヴィア館の中へと入って行った。
その後を涼子は膨れっ面で追いかけて行く。

 

「…やっと帰ってきた!大変なの、ちょっと来て!」

 すると喫茶ラ・テーヌから夏美が出てきて、青い顔でみなを先ほど見た鏡の
ところへと連れて行った。

「…これは?」

 先ほど夏美が見た合わせ鏡に浮かび上がった血文字は、下に向かって垂れて
しまっていて、まるで文字の形を成していなかった。

「私が見た時は、血で文字が書かれてあったの。ほんの一瞬目を離した隙に、
何も書かれていない鏡に…この血が文字を形作っていたのよ!」
「…一瞬で?何て書いてあったんです?」

 博士が興奮気味に説明する夏美に聞いた。
鏡の傍には、光がその血を指ですくって匂いを確かめている…。

「たしか…SP…何とかって書いてあったと思うんだけど…。」
「…恐らく、スペクテータ『 観覧者 』だろう。」

 その奇妙な言葉を聞いて、光は博士の方を見る。

「観覧者…?一体何の事かしら?」
「さあ、良く判らんが…上の階の合わせ鏡にも、それと同じ文字が彫り込まれ
てあったんだ。」

「ねえ、魔女って…その場にいなくても、鏡に突然文字を書いたり血を飛ばし
たり出来るんですか?」

 涼子が鏡の血の痕を見つめながら、一人腕組みをしながら考え事をしている
光に聞いた。涼子は今だに、光が”魔女”だという事を本気では信じていない。
どこかふざけ気味な口調で涼子は質問したのだが、光は至極真面目に彼女の質
問に答えて言った。

「…厳密には出来ないわね。魔女って言っても、私たちは現実の物質世界の中
で活動している訳で、薬物にしても相手を痛めつけるのでも、現実の物質世界
の物を活用しているにすぎないわ。だから、空を飛んだり瞬間移動したり物を
別の場所へ運んだりなんて…それは超能力で、私の知りえる学術としての魔術
ではないわね。」

「ふむ…とすると、この現象は一体何によるものだろう?観覧者とは…誰を
指しているのかな?」
「観覧者……。」

 その奇妙な言葉に、夏美は二日前に菫から聞いた事を思い出した。
自分の部屋に以前住んでいた者の話である…。

”…男は確か、二日ほどであの部屋を出て行ったんだって…そう、誰かが見て
る!と叫んで…。”


 夏美は自分が目の前で不可思議な現象を見た事で、にわかにこの出来事が
奇怪なものであるかも知れないと思い始めていた。しかも、涼子たちが持ち帰
った情報も、さらにそれに拍車をかけるものになった…。

 

 

 

 


"Autumn Leaves" by Richard Clayderman (Piano Instrumental Music)

 

 

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 板橋駅を離れ、秘書を乗せた須永理事長のスポーツカーは街の中を走る。
真っ赤なフェラ―リと呼ばれる高級車は、欧米などでは王族や貴族、各界の
著名人など上流階級が好んで乗るスポーツカーで、びっくりする値段の高級車
である。

 今回の依頼主でもある須永理事長だったが、その姿を目にするのは数年ぶり
の事だった。助手席に座る秘書にとっても、久しぶりに会う懐かしい友人であ
り、光さんとはまたタイプが違うが、柔らかい年上のお姉さんという雰囲気を
持った女性である。

 もちろん、この須永理事長も見た目通りの人物という訳ではなく、一筋縄で
はいかない女性で、博士に言わせると、この人も”魔女”であるらしい。


「理事長さん、ありがとう。でも、どうしてあんなところに…?」
「うん、薫ちゃんから連絡を貰ったのよ。あの博士って人が、駅に車を回して
くれないかって。私も大学へ帰るだけでしたし、お安い御用でしょ?」

 そう言って須永理事長は助手席の秘書に笑顔を向けた。
四十過ぎの女性とは到底思えない可愛らしさを持ち合わせている。

 

「それにしても…凄いですね、この車。」
「でしょ?借りたのよ。東京辺りにも私の知り合いや友人がおりますの。」

 秘書は運転席の須永理事長が、えらくセクシーなスタイルの服装をしている
事に気がついた。普段この理事長は、おっとりとした性格の芸術家であるが、
その性格とは裏腹に胸が大きく開いたドレスや、深めに開いたスリットのスカ
ートを好んで穿いている。

「胸元ちらりや太腿ちらりで、鼻の下を伸ばす殿方がたくさんいるのよ。それ
で上手く回る事もあるの。まあ、薫ちゃんは気に入らない手段だって言うけど
ね。」

 そう言ってウインクして見せる四十過ぎの女性の笑顔に、同性の秘書もくら
っときそうになる。博士の言う、魔女たるゆえんはこんなところにあるのだろ
うか?

「…ところで、川村弁護士は死んだそうね?」
「はい…博士が言うには、首がネジのようにぐるぐる巻きになっていたそうで
す。盗んでいったお金は取り戻すのはちょっと難しそうです…。」

 しばらく須永理事は無言で前を見つめながら運転していた。 
何か悲しいとも無表情とも違う、不思議な表情で…。

「…あの男にはふさわしい最後ですわね。でも、お金はどうでもいいの、ただ
昔の同僚として、あの男が何か悪い事に手を貸しているのが許せなかったの…
それだけね。」

 猛スピードで飛ばす車はモラヴィア館に近ずいてきた。大通りを曲がると、
とたんに車の通りが少なくなる…。


「この手紙を薫ちゃんたちに見せてやって。私が調べた事が書いてあるわ。」
「はい、分かりました。」

 モラヴィア館の入り口付近に車を止めると、須永理事長は一枚の手紙を取り
出し、秘書に手渡す。車を降り、運転席側へとやってきた秘書はここまで送っ
てもらったお礼を言うと、気になっていた事を彼女に言った。

「あの…光さんには会っていかないんですか?」
「ああ…いいのよ、私たちは”悪友”だから。普通の友達とは…ちょっと違う
の。」

 少しだけ寂しそうな表情で須永理事長は言うと、モラヴィア館の黒々とした
建物を下から仰ぎ見る。それから秘書へと真面目な顔を向け、顔を近ずけなが
ら言った。

「…数日のうちに何かが起きるわ。この街で…東京の有力者たちは密かに街を
出ていってるの。この街を捨てようとしてる…もしも、オカルトまがいな事件
が関係しているなら、このモラヴィア館が中心になってる。謎を解けるのも、
あなたたちだけよ。私は外からあなたたちを守るように動いてみるから…。」

 秘書は無言で頷くと、手紙をしっかりと握りしめる。
そして車のエンジンをかける須永理事長に、もう一言だけ声をかける。

「あの、理事長の方は…」

 だが、彼女は秘書の心を読んだかのように言葉を遮ると、サングラスをかけ
ながら笑顔で言った。

「大丈夫です。私は”魔女”ですもの!自分の身を守る術は心得てますわ。」


 そう言って須永理事長は、真っ赤なフェラーリを猛スピードでかっとばし、
あっという間に見送る秘書の視界から消えていった。


(続く…)