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夜の観覧者 29話

       

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            29  微かな風と…


 10月8日 夕方までの時間…

 夕暮れが近ずく曇り空を背景に、薄暗いフロアのなか二人の双眼はライトの
ように強烈な輝きを放っていた。へーゼルグリーンに輝く光に対して、秘書の
両目はオレンジ色に輝いている。

 その瞳は、猫や蛇といった夜行性動物のように、スリット状に変化していたが
、それは少なからず人体に影響を及ぼすオルゴンの強烈な輝きから守るため
の自己防衛手段だった。

 この場合、秘書にとっては”猫の目”である。
それは不思議な輝きを放ち、動きを止めて二人の女性の様子を窺う暗殺者の前
に出てゆく。

 

 

 


RAYMOND LEFEVRE-STORIE DI TUTTIIGIORNI 過ぎ行く日々の物語

 

 

 と、黒い暗殺者が凄まじい勢いで秘書へと飛びかかる。
その手には大きなナイフが握られていて、彼は長い髪を振り乱しながら彼女の
数センチ手前までやって来た。

 その黒髪の男の長い鼻っつらに、秘書はほとんどパンチのような張り手を見
舞った。男は床の上を二回転ほど真後ろに転がりながら吹き飛び、長い鼻が横
に曲がるくらいに変形していたが、鬼の形相で立ち上がってくる。

 

 秘書の手の平には、鉄を叩いたようなびりびりと痺れるような感覚があった
が、何か身体の奥から湧きあがるぞくぞくするような興奮に自分の全身が包ま
れているような気がした。おまけに身体が驚くほど軽い。

 舌で乾いた自分の唇を舐めると、男の前で飛び上がり短いスカートの中が見
えるのもお構いなしに、左右の強烈な回し蹴りを顎に叩き込む。鈍い音がして
男の顎のコルセットが弾け飛び、真後ろに数メートルほど吹き飛んだ。

 

    

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 心臓がどうかなるのではないかというほど激しく鼓動する事に驚きつつも、
秘書は何故かくすくすと笑いが込み上げてくる。両手を口元に当てながら、
彼女は履いている靴を蹴飛ばすように脱ぎ捨てた。

「痛っ!?」

 蹴飛ばした秘書の靴が壁に当り、離れて見ていた博士の頭に当った…。
隣で成り行きを見つめていた涼子が靴を拾う博士に聞く。

「…彼女どうしちゃったのよ?」
「あれは…オルゴン・パワーだよ。興奮によって引き起こされるエネルギー…
人体の神秘だな。」

 そう言って博士はコートのポケットに手を入れると、先ほどテーブルの下で
自分が脱がせた秘書のブラジャーを掴んで思った。


「…形勢逆転ね。二対一よ、あんたらに勝ち目があるかしら?」

 傷だらけの光がにやりと笑いながら防弾ガラスの向こうの老人に言った。
会長は予想外の展開にも黙って成り行きを見つめている。光は秘書へと近ずき
ひそひそと声をかけた。

「…館で言ってた通りに速攻で決めるわよ。出来そう?」
「ええ、たぶん。それにしても凄い力…オルゴンって。」
「でも、後が大変よ?」
「後?どうしてですか?」

 光がにやにやしながら秘書に囁く。

「…戦ってる時はいいのよ、でもオルゴンの効果は切れたあとも一時間は興奮
状態が続くの。その…性的な欲求みたいなものが…大変でしょ?」

「何だ、そんな事か。博士に何とかしてもらいますから問題なし。」
「あ、そう…。」

 

 二人が臨戦態勢を整える前に、殺し屋はナイフを手に飛びかかってくる。
と、同時に二人は相手めがけて飛びあがると、男の首周辺にカウンターで蹴り
を入れ、勢い良く真後ろに倒した。

 

 

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 もちろん急所の首筋とはいえ、殺し屋の異常な強度の筋肉では致命的なダメ
ージを与える事は出来ない。しかも痛みを感じないという化物である。

 床に倒れた男の手には今だ大きなナイフが握られていて、光は素早くその腕
を取りアームロックという技でひねりあげた。男の上半身が浮き上がるほどに
ひねりあげると、とうとう手から大きなナイフが落ちる。これで殺し屋の両手
は完全に使いものにならなくなった。

「…足を抑えて!」

 光は秘書に向かって叫ぶと、素早く男の首に足を絡めて首四の字で締め上げ
る。ダメージを与えられないならば”絞め落とそう”という作戦だ。光の強靭
な脚が殺し屋の首に大蛇のように絡みつき、締め上げる。

 かたや秘書の方は、今だ激しくもがき暴れる狂人の両足に苦戦していた。
どうしてもまともに抑える事が出来ない。

「…もう、めんどくさい!」

 と、秘書は立ち上がると男の両足の間を思い切り蹴りあげた。
いわゆる金的蹴りである。さすがに急所だけは強靭な筋肉があっても、痛みを
消す事は出来ないのか…。

 広いフロアに響き渡るほど激しい音が響きわたり、暴れていた殺し屋は急に
動きを止めた。それまで血走っていた殺し屋の目はすっかり怯えたようになり
、上から見下ろすような残酷な笑みを浮かべる秘書を見つめた。

 秘書はそんな殺し屋の傍に腰を屈めると、恐怖に引きつり始めた顔に近ずき
、耳の後ろに髪をかきあげながら囁く…。

「…うん?痛かった?暴れないって約束するなら…これ以上痛い事しないで
あげる…。」

 困ったような表情で秘書は、男の顔を覗き込むように近ずき口元に囁く。
男は光に首を絞められながらも、無言で首を小刻みに縦に振る。

「いいわ。」

 そう言って立ち上がると秘書はもう一度、遠慮なしに急所を蹴りつけて、力 
の無くなった両足を脚四の字固めに捉えた。

 二人は殺し屋の両足と首を決めながら、両手を床につき自分の腰が浮くほど
力を込めて締め上げる。

 殺し屋の断末魔の悲鳴が、広いフロアに響き亘った。

 

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 殺し屋の男が完全に失神すると、光と秘書の二人は技を解いてその両手、両
足を縛りつけた。目を覚ました時、また暴れてもらっては困るからである。

 ゆっくりと立ち上がった秘書の両目の輝きも徐々に小さくなってきて、いつ
の間にか瞳はいつもの状態に戻っていた。オルゴンの力は強烈ではあったが、
ほんの数分しかその効果は続かないのである。


「…さて、この男は警察が連行させていただくわよ?連続殺人事件の重要参考
人として。」

 手錠を取り出し、倒れている殺し屋へと近ずきながら、涼子が防弾ガラスの
向こう側にいる老人に言った。取り巻きの背広を着た男たちは顔色一つ変えず
に老人の後ろに立っていて、会長である車椅子に座る男も無言でフロアの様子
を見つめている。

 博士たちと同じくフロア内にいた会長の執事も、大騒ぎの一幕に動揺を隠せ
ないながらも無言で事の成り行きを見守っていた。彼はプロの執事なのだ。

「当然、下柳会長、あなたもその責任は免れないわね。これ以上無駄な抵抗は
止めてー」


 涼子が言った時、フロアのエレベータが下へと戻り始めた。
地下まで降りたエレベータは、再度上に向かって戻ってくる。またも何者かが
ここへやって来るという事なのか…?

「…ちょっと、何なの?」

 涼子は振り向き、車椅子の会長を見る。
彼は今にも吹き出しそうな表情で、若い女刑事を睨みつけていた。

「…まさか。」

 その両目の輝きが小さくなりつつある光は呟くように言うと、堪えきれずに
笑い始めた会長の方へと向かって走り出した。そして防弾ガラスに自分の拳を
打ちつけながら声を荒げて叫ぶ。

「あんたって人は…!」

 今だオルゴンの力が残る光の拳でも、会長を守る防弾ガラスには傷一つ付け
る事は出来なかった。それでも光は血にまみれた拳をガラスに打ちつける。

「無駄だ、君の馬鹿力程度ではこの防弾ガラスは砕けないよ。兵隊というもの
はね、一人では金にはならんのだ。」

「この、悪魔…!」

 叫ぶ光の後ろでエレベータの扉が静かに開いた。
中には先ほど倒された、殺し屋の男とほとんど同じ服装をした連中が五人も
乗って来たのである。

 いずれもその顔は凶悪そのもので、背かっこうは違いがあるがそれぞれ恐ろ
しげな武器を手にしていた。先ほどオルゴンの力を使い、二人がかりでやっと
のこと絞め落とした殺人鬼が五人…まさに絶望の光景だった。

 男たちがフロアに出ると、エレベータはまたも下へと降りてゆく…。
おそらくもう、二度と上がって来る事はあり得ないだろう。このフロアはエレ
ベータでしか外に出れない作りになっているからだ。階段も存在していない、
完全に会長らの秘密のフロアなのである…。

 

「…形勢逆転かな?五対二だ。もっとも、オルゴンとやらの力はもう残っては
いないようだがね?」

 会長は余裕の表情でフロアの中を見つめながら言うと、腕の時計をちらりと
見た。時の権力者である下柳財閥の会長である、この余興もそろそろ潮時なの
だろう。


 無駄とは分かっていても、若い刑事の二人は拳銃を彼らに向けて威嚇する。
夏美と共にその光景を見つめている菫も、この状況がいかに絶望なものである
かを瞬間的に理解していた。

 博士は片膝をつきフロア内を見回している…傍には秘書がやって来て、不安
げな表情で彼を見つめていた。

 先ほどまでの超人的な雰囲気は秘書には無く、肌を露出した服装をしてきた
のはオルゴンの力で戦う事を想定していたからで、幸いあれだけの激しい戦い
にもその綺麗な肌を傷つけられる事はなかった。

 今、あの殺し屋たちに襲われれば、彼女もひとたまりもなく殺されてしまう
だろう…。


「…全員始末しろ。女は五人いる…好きにして構わん。私はこの街を離れる。
それではこれで、永遠にお別れだな。」

 会長は楽しそうに言うと、背広を着た男に車椅子を押させ、このフロアを出
ようとする。


「…いや、爺さんちょっと待った。もう少し長居すれば面白いもんが見れる
と思うよ?」

 突然の博士が言う言葉に、帰りかけた会長が片手を上げる。
すると背広の男が車椅子を押す手を止め、フロアの博士らの方へと椅子を向き
直した。

「……何かね、それは?」

 博士は無言でエレベータの方を指さした。
やって来た五人の殺し屋たちも、エレベータの方を一斉に振り向く。

 もう二度と上がって来ないと思われたエレベータが、またもこちらに向かっ
て上昇を始めたのだ。

「…もう上には戻すなと言っておいた筈だぞ!どう言う事だ?」

 会長がいらつく表情で、防弾ガラスの向こう側にいる執事に言葉をかける。
初老の執事も意外なものを見るように、エレベータのランプを見ながら答えて
言った。

「…これ以上誰も来るはずがありません。下のロックはここに来る前に私が
かけてきたのですから…コンクリートの分厚い壁を通り抜けてでもこない限り
部外者でここへ来れる者などおりません。」

 と、エレベータがこの階に到着すると、突如として電気が切れてしまった。
外はまだ日が暮れる前だったので完全には闇に包まれてはいなかったが、エレ
ベータ付近は外の光が届かずかなり薄暗い。

 電気が切れているというのに、エレベータのドアが静かに開いた。
このフロアにいる者たちは皆、かたずを飲んで暗いエレベータの中を覗き込ん
だ。

 中からは物音も、動くものも無い…。

 

 が、暗い闇の中から、何か白いものがぼんやりと見えてきた。
そしてそれは、ゆっくりと音も無く姿を現す。

「…何よあれ…!」

 

 

          

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 暗闇のエレベータからゆっくりと現れたのは奇怪なものだった。
良くは見えなかったが、驚くほど真っ白い顔のようなもの…そして長い髪の毛
に何かの布切れを着込んだ、人型と思われるような姿である。

 それが、エレベータを出るとゆっくりと、音もなくこちらに近ずいて来たの
だ。

 博士はその奇怪な代物を見て、なぜ音も無くこちらに近ずいて来るのかを
理解した。それには足らしきものがついていなかったからである。手らしき
ものも無い…そう、まるで田んぼにある”かかし”のようだと博士は思った。

「…は、博士!あれ…モラヴィア館の入口で私がすれ違った時の…」

 それは今や、先ほどやって来た五人の殺し屋たちの僅か数十センチほどの
ところまでやって来ていた。そして、その姿はもうほとんど皆にも肉眼で見え
るものだった。

 髪の毛と思われたのは、長い棒がついた掃除用のモップの毛の部分で、驚く
ほど白い顔の正体は一枚の厚手の紙だった。その紙に何か人間の顔らしき絵が
描かれてある。それが顔であるならば、である…。

 

 五人の殺し屋たちは一斉に馬鹿笑いを始めた。
侵入不可能な場所へとやって来たのが、こんな子供騙しの人形だったのだか
ら。馬鹿笑いする彼らの前まで来ると、それは動きを止めた。何かカーテンの
ような布切れをモップの棒に巻きつけてあり、まるで服のように見えなくもな
い。

 


 博士には、やって来たその奇怪な代物が尋常ではないと感じた。
確かにその作りはチープなもので、子供騙しの玩具に思える。しかしそれは
あくまでも外見上の姿形であって…今この場所へとやって来た事実が普通では
あり得ないのである。

 ここは天下の下柳財閥のハイテクビルである。
それにこのエリアは会長らのプライベートルームのような物で、地下からここ
まで来るのに何重にも亘る扉のロックがあるのだ。つまり、部外者は自由に
立ち入る事など不可能なのだから…。

 なら、この操り人形はどこから入ってきたのだ?
そもそも操っているとして、どんな方法で操っているというのか…見たところ
糸も線も見えない…電動らしきモーターも電池も装備されているとは思えない
…。

 いや、まてよ?この人形の材料は、このビルの中でも手に入る物ばかりでは
ないか?掃除用のモップ、カーテンの切れはし、白い紙…。

 

 

 馬鹿笑いしていた一人の殺し屋が、いきなり手にしていた鉄の棒のような物
で、奇妙な人形をめった打ちすると、あっという間にばらばらに砕いてしまっ
た。モップの木は砕け、紙は切り裂かれ、布はびりびりと裂かれた。

 が、信じられない事に、瞬きする間に一瞬にして元の人形へと復元したので
ある。顔と思われる白い紙は、切り裂かれたために先ほどよりも凶悪な人相へ
と変わっていた。殺し屋たちは驚きのあまり、慌ててその人形から離れる。

 突如、フロア全体に耳鳴りのような振動が起こった。
奇怪な人形を中心として、大気が渦を巻き始めたのである。

「…危ない!離れて…!」

 

 

 

         

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 光が叫ぶと同時に、新たにやって来た五人の殺し屋たちがいる周辺の空間が
奇妙に歪み始めた。そして物凄い音と共に、次々と殺し屋たちが大理石の床へ
と叩きつけられるように押し潰されていく。

 何か目に見えない巨大なものに圧殺されるような、とてつもない大きなハン
マーで人を叩き潰すようなそんな強烈な一撃で、次々と男たちは叩き潰されて
いった。その間、僅かに数秒の出来事である…。


 フロアの床に五つの大きなクレーター状の穴が出来ていて、五人の男たちは
人の原型を留めていないくらい圧縮され絶命していた。ここへ現れた奇妙な人
型の人形は、フロアの中心でばらばらに砕けている…もう先ほどのように再び
形に戻る事はなかった。

 それは終わったかに思われた、だが… 

 

 

 


"Edelweiss" Sound of music Piano, easy arr.+notes : Håkan Edlund

 


「…まだ何かいるな。」

 博士が暗いフロアの中を見回して静かに言った。
目には見えないが、確かに何かが高い天井のフロア内に今だ漂うように動く、
気配のようなものが感じられた。

 と、いきなり会長の目の前の防弾ガラスに、凄い勢いで何かがぶち当たった
のである。目には見えないが、その一撃で会長を守る防弾ガラスに大きな亀裂
が入った。

 オルゴンの力を使った光の攻撃に、傷一つもつけられなかった防弾ガラスで
ある。それがたったの一発で、今にも割れんばかりのダメージを受けているの
だ。

 その恐ろしさに、会長の車椅子を引いていた背広の男たちは腰が砕けたよう
にその場に倒れ込む。何人かはすでにこのフロアから逃げ出している…。

「…だ、誰か!椅子を…何をやってる!あああっ!?」

 車椅子に一人残された会長は、恐怖のあまり叫び声をあげる。
残る数人の背広を着た男たちも、まともに立てないほど恐怖で身体が動かなか
った。

 そこへもう一度、何かが亀裂の入ったガラスに激しい勢いでぶつかると、
フロアの半分ほどを区切るように配置された防弾ガラスは、凄い音と共に粉々
に全て砕け散ったのである。

 

 

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 会長の悲鳴がフロアに響きわたると、先ほど五人の殺し屋を圧殺したのと同
じように、凄まじい音と共に車椅子ごと会長は一発で叩き潰された。

 この国でも一、二を争うほどの大財閥の会長、下柳清五郎は何一つ抵抗も
出来ずに得体の知れぬ力によって命を落とした。ここまで様々な事件に関与し
てきたと思われる黒幕的な人物は、絶対の防衛が施されていたであろう自らの
城で、その生涯を終えたのである。

 

「終わったみたいね…。」

 光は小さく呟くと、ブルクハルト大学時代から続く事件の黒幕が遂に倒れた
事に安堵のため息を漏らす。

 全てが終わったかに思えたその時、数人の背広を着た男たちが出口に向かっ
て逃げ始めた。出口付近には倒れ気を失っている物理学者もいる。

 だが、見えない何かはまたも動き出しそれらを追うように移動を始めた。
姿は見えないながらも、それが起こす物音や破壊音で移動する場所がなんとか
分かるのである。

「…博士、そっちに行った!危ないー」

 秘書が叫んだ先には博士がいて、床に残された奇妙な人形の残骸を調べて
いた彼はその声で顔を上げた。目の前に猛スピードで何かが迫ってきている。

 一瞬早く、博士はポケットに手を入れ何かを掴むと目の前の空間に向かって
投げつけた。

 白い粉末状の物が、何もない筈の空間に撒き散らされると、空中に何かの
姿が映し出されたのである。粉末状の物質が撒き散らされた事によって、人の
ような姿が肉眼でも捉えられたのだ。

 

 

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 それは長い髪の毛を持った、全裸の女性像に見えたのである…。
もちろん、粉に触れた部分がぼんやりと人の姿を映し出しているにすぎないが
、それでもこのフロアに出現した得体の知れない力の正体には違いないと感じ
た。

「…やあ、君が”暗闇の魔女”かい?」

 博士は囁くように言うと、空中で漂うように浮かぶ人型のものは、動きを止
める。それと共に徐々に白い粉は床へと落ちてゆき、かろうじて人の姿に見え
ていたものは、またもその姿を消してゆく…。

 

「助かったよ。もういいじゃないか、我々はモラヴィア館に帰るよ。」

 片膝ついた状態で博士が言うと、しばらくの間フロア内を静寂が支配する。
そして、小さなつむじ風のようなものが最後の残り粉を吹き飛ばすと、博士の
頬を撫でるように通り過ぎ、消えた…。

 

「…これはー」

 その時の風に、博士にはどこかで嗅いだ事のある心地良い匂いが含まれて
いる事に気がついた。そして、博士には何故かこの場にずっと歌声が聞こえ
ていたような気がした。

エーデルワイス…。」

 それきり、このフロアから奇妙な気配は完全に消え去ったのである。

 


「帰りましょう。ここにいたら、会長たちの仲間がまた来ないとも限らない
わ。撤収よ。」

 涼子が言うと、隣に立っていた大男の刑事も拳銃を懐にしまうとエレベータ
の方へと向かって歩きだす。

「しかし、これ動きますかね?」

 若い刑事が言うやいなや、切れていた電気がパッと戻りエレベータのドアが
静かに開いた。まるで、夏美たちが帰るのを待っていたように。


 フロアを急いで立ち去ろうと、夏美たちはエレベータへと向かう。
博士は去り際に、初老の執事の傍を通りかかり声をかける。博士の手には例の
ロマネ・コンティーがあった。

「ご馳走様。料理は美味かったよ。」
「…さようで御座いますか。外までご案内させていただきます。」

 最後まできちんとした対応の執事に、博士は振り向くともう一つだけ質問
する。

「…あんたさっき、分厚いコンクリートを通り抜けてこない限り部外者でこ
こへ来れる者はいないって言ってたよな?”あれ”が壁を通り抜けてくる事を
知ってたのかい?」

「まさか…そのような事が起きるなどという事は…偶然です。」

 その執事の平然とした態度を見て、博士はにんまりと笑った。
大男の刑事もその妙な様子を見て、坊主の彼と執事を交互に見つめる。

「…そりゃそうだ。こんな事が起きるなんて想像つく奴はいないよな?」


 奇妙なほど愉快に笑う博士に首を傾げつつ、秘書は彼の後ろを追いかける
ようにエレベータへと乗り込み、惨劇の場所を後にする。


 日暮れ間近の東京上空は、消えゆく夕陽に赤く染まっていた。
午後四時五十分…運命の夜は、日没と共にもうじき訪れようとしている…。


(続く…)