ザ・怪奇ブログ

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水面の彼方に 6話

 

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             6  エラの神話


 その夜、稲本光が空港に降り立ったのは午後二十時を少し回ったところだっ
たが、ターミナルへと向かう人の数はそう多くはなかった。

 インドネシアからの便に乗っていたのは数人の現地人観光客と、主に日本帰
りのサラリーマン一行だった。長いエスカレーターを降りる間、頭の禿げかか
った中年親父が物珍しそうに自分を見つめる視線に気がつき、光はにこりと微
笑みかける。

 まばらな人の波に自分の姿を紛れさせる事が出来ずに、光は緊張の面持ちで
空港ターミナルを歩いて行く。どのみち、南国帰りの外国人にしか見えない光
には、人ごみに紛れるなんて事は不可能なのだが。

 頭一つ突き出た身長の高さ、金髪青目でおまけにミニスカートから伸びる長
い脚…目立つなという方が無理ではあるのだが、光にはそうしたスタイルでや
って来なくてはならない理由があった。


 空港を出れば目的地までは休む場所はない、このターミナル内で腹ごしらえ
をしていこうと光はレストランが立ち並ぶフロアを見渡す。どこも人が沢山い
て、万が一店内で何かが起きた時に欲しくない注目を浴びてしまうだろう。

 と、フロアの一番端から、光にはひどく懐かしい匂いが漂ってくるのが感じ
られた。

「…決めた。ここで腹ごしらえよ。」

 光が選んだのは一軒の立ち食いそば屋である。
人が二人ほど立つと満員になるほど小さくて狭かったが、ここなら誰にも気ず
かれずに安心しながら食事が取れると光は思った。

 のれんをくぐると店のおばちゃんが挨拶をしてきたが、入ってきたのが完璧
に金髪の外人だった事に一瞬驚きの表情を浮べる。

「かけうどん一つちょうだい。ネギ多めで。あっ、それと七味も。」

 あからさまな日本語に面食らうおばちゃんだったが、すぐにうどんの用意を
始めた。さすがは空港の立ち食いそば屋である。

 丼に熱々のだし汁を入れ、そこにうどんとネギを入れて完成というシンプル
極まりないもので、僅か十秒ほどで出て来るのである。時間の無い時にはこれ
ほどありがたい物はないし、おまけに安いときてる。

 一年以上日本を離れ、南の国で過ごしてきた光。
見た目はどう見ても外国人ではあるが、日本人の血も半分雑じっている光には
かつをだしの風味が効いたうどんは堪えられない美味しさである。


「…ふうっ!ご馳走様。」

 あっという間にかけうどんを完食して、汁も全部飲みほした光は小銭をカウ
ンターに置くとお礼を言って立ち食いそば屋を出た。お腹のベルトをずらして
一息ついた光は、またも眼光鋭く空港内を見渡しながら歩きだした。


 約一年半ぶりに戻ってきた日本ではあるが、今日来た事は須永理事長も真理
にも伝えてはいなかった。

 そもそも、この国において自分という人間の存在を知っている者は彼らだけ
で、稲本光…いや、間宮薫という人物は、すでに死んでいる人物なのだ。この
世に存在していないのである。だからこそ、光は間宮薫として生きていた頃の
姿形を髪型から服のセンス、その性格までも何から何まで変えたのである。

 ところが昨日、クライストチャージにある自宅に届いた「間宮薫宛て」の
茶封筒が光をこの日本へと戻したのだ。自宅の場所や番地などは良美ちゃんや
真理にも伝えてはいない。という事は他の誰もが知らない筈である。

 ニュージーランドで稲本光として静かに暮らす自分に「間宮薫宛て」に手紙
が届いたのだ。茶封筒の中身は、どこで手に入れたのか知らないが、光と真理
が一緒に写っている一枚の写真のコピーと、見た事の無い禿げ頭の親父の顔写
真が一枚…それ以外は何も入っていなかった。

 これはとんでもない事だった。
もう誰も自分が間宮薫であるなどと知る者はいない筈の人生。いや、よしんば
数人の人間が自分の存在をよく知っているとしても、こんな奇妙な手紙を送り
つけてくる事などあり得ない。けして間宮薫という名前を出す事をしない筈だ
から…。

 そして茶封筒に入っていた奇妙な日本人男性の顔写真…。
これらが指し示す事が何なのか?光には分からなかったが、すぐに日本へと戻
らなくてはならないと思った。自分の素姓が何者かに知られている以上、国外
であろうが日本であろうが安心して暮らす事は出来なくなったからだ。

 何より、封筒には自分と一緒に写る真理の姿も写っているのである。
これを送りつけてきた人物は、真理の事も知っている事になる…ならば、日本
へ戻るのが一番であると光は感じたのだ。


 それも一刻も早く、あの忌まわしくも懐かしい地に…そしてこの世に自分を
繋ぎとめた、大事な人たちが住むあの場所に。

 

 

 

 食事の時間が終わり、広い食堂には博士らと須永理事長と真理だけが残り、
ここへ二人がやって来た理由を説明したところであった。

 すでにジャズバンドも荷物をかたずけ撤収した後で、食堂の電気も二十時を
過ぎたところで半分以上が消えている。この聖パウロ芸術大学は完全寮制度を
取っているので、寮生にはきちんとした規則が設けられてあり、二十一時には
みな自分の部屋に入る事になっている。

「もちろん、あなたたちなら何日滞在しても構いませんわ。ねえ、真理さんも
そう思うでしょう?」

 須永理事長は楽しそうな表情で手を叩くと、隣の真理を見て言った。
真理の方もまるで異論は無さそうに笑うと、腕組をしながら頷いて見せる。

「私はあなたたちに助けられたのよ?あの命懸けの旅にも付き合ってもくれた
し、光さんの命も救ってくれた…大事な友人よ。今度は私たちが何かの役に立
たなくちゃね。」

 それ以上博士と秘書の二人は、彼らのありがたい申し出を断る事は出来なか
った。


「それじゃ、とりあえず私の部屋に案内するわ。行きましょ?」

 真理がテーブルから立ち上がると、秘書の方を向きながら言った。
秘書はちらりと博士の方を振り向いて彼の言葉を待った。

「君は真理さんと先に休むといい。私は図書館で調べ物をしたいんだ。」
「ほら!ね、行こう?早紀さん。」


 秘書は小さく頷くと、真理と二人楽しそうに食堂を出て行った。
須永理事長はその後ろ姿を見ながら、嬉しいとも悲しそうとも取れる表情を見
せる。

「…あの子、もうずっとここにいるでしょ?薫ちゃんはめったに戻らないし…
同年代の友達と呼べる存在がいないのよ。だから、あの子いま凄く楽しそう。
それだけに、後が怖いわね…あなたたちが帰った後が…。」
 
 腕を組んだまま博士は無言で二人が去った食堂の入口を見つめた。
思えば秘書の早紀君にも、同年代の友達と呼べる存在はいなかったという事を
思い出し、博士は理事長が真理に感じることと同じ事を思った。

「ああ…ごめんなさい、図書館へご案内いたしますわ。」

 思い出したように須永理事長は立ちあがり、食堂の入口へと向かいながら
博士に手まねきして言った。聖パウロ芸術大学にある図書館へと案内するため
に…。

 かつて秘密結社として存在した前大学からの遺産として残るさまざまな貴重
な本の数々。そして数十年にも亘り、不気味な支配を続けていた結社の黒幕、
蔵前和弘の所有していた秘密の書籍の数々が今も残る大図書館ー

 それが博士がこの聖パウロ芸術大学にやって来た、もう一つの目的だった。

 

 

 

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 真理の部屋は二階の寮生たちが住む一番奥に位置する場所にあった。
部屋はそれほど広くはなく、およそ女性の部屋とは思えないほど簡素なものだ
った。作りかけの彫刻や細かな道具類がたくさん並んでいて、まさに芸術家の
部屋である。

 木製の棚には、どこか南国の民芸品と思われるような木彫りの人形がいくつ
か並んでいる。ニュージーランドに住むという光さんからのお土産品だろう。
博士の読んでいた本に似たような物がいくつもあり、彼はそれは魔除けの類だ
と説明していた。

「何かきたない部屋でごめん。ま、その分遠慮しないで泊まれると思うの。」
「家のプレハブ事務所よりずっと綺麗だわ。」

 そう言って真理は自分の寝床を作るために、べッドの下に予備の布団を敷き
始めたが、その彼女の姿は終始楽しげだった。

 数年前会った真理は、どこか昔の暗澹たる出来事を引きずるようなところが
あり、自分に触れて欲しくないというトゲを全身に張り巡らせているような
雰囲気を持っていた。

 だが、今日久しぶりに会った真理からは、かつての角やトゲはすっかりと
消えている。少しふっくらした顔と同じく、その性格も柔らかさや丸さといっ
たものが感じられた。

「真理さん随分変わったね。何かあったの?」

 自分の寝床を作り終えると真理はそこへあぐらをかいて座り、秘書の質問に
答えて言った。

「別に、何もないけど…ただ、”あの人”が生きてて、私が思ってたよりも
薫さんには弱いところがあったんだって分かって急に楽になったの。私、あの
人をずっとお手本にしてきたから。」

 棚の中からコンビニの袋を取り出すと、チューハイ数本と大量のスナック
菓子が出てきた。

「ああ、そうなんだ。確かに、”あの人”泣き虫だもんね!」

 二人はしばらく光さんの話題で盛り上がると、チューハイで乾杯し酒盛りを
始めた。毎日こんな夜更けに飲んだり、大量のスナック菓子ばかり食べてたら
顔も丸くなるわね、と楽しげに笑う真理を見ながら秘書は思った。


 そんな真理さんだからこそ、秘書にはどこか可哀想にも思えたのである。

 

 

 

 

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 観覧時間を過ぎた図書館は博士の他は誰もいなかったが、様々な専門書を
読みふけるのに好都合であると博士は思った。

 大学の図書館にしては無駄に広いのではないか?と思うくらい巨大なスペー
スとおよそ二万冊の蔵書を誇る須永理事長自慢の大図書館である。元々、この
大学は錬金学や呪術に精通した者たちが運営してきた場所であり、膨大な量の
書物は他に類を見ないような専門書や記録書に溢れていた。


 そんな中、博士は探していた物を見つけた。
あの数百年を生きた奇怪な人物、蔵前氏の残した書物の中にそれはあった。

 昨夜あの家の壁にかけられていた奇妙な像…。
博士はそれを持ち帰り自分なりに調べてみたところ、どうやらその像は紀元前
6世紀頃バビロニアの遺跡から出土した物で、有角竜と名ずけられた奇妙な像
であるらしい。

 有角竜の像は、大蛇を彷彿とさせる姿であらわされており、頭部には2本の
角が突き出ている。バビロニアに伝わる「天地創造物語」においては、この
有角竜は超自然界の怪物として表しており、主神マルドゥクによって滅ぼされ
た事になっているのだ。

 古代バビロニアの人々は絵画や彫刻に数々の怪物を描きだした。その姿は
多くの場合2つの要素の寄せ集めである。人と魚、蛇に角、人とサソリという
複合体もあった。それらは全てマルドゥクによって滅ぼされた事になっている
が、神話の中では何をイマジネーションしたものなのだろうか?巨大な蛇の
イメージは、蛇行する川を現していると言われている。

 さしずめ、メソポタミアの主神マルドゥクは暴れる川や洪水から民を守った
英雄ともいえるだろう。


 その時、図書館の入口のドアが開き、須永理事長が戻ってきた。
その手には何か飲み物を持って歩いてくる。博士は本棚の二階部分に脚立を立
てて本を読み漁っていた。

「あの、お飲み物お持ちしましたの。」
「そりゃどうも、もう少し後でいただきます…理事長だけお先にどうぞ。」

 博士は高い脚立の上から下を覗くと理事長の手にしたお盆にビールの瓶が見
えた。博士はビールが苦手なのである。

「あら、そうですか?じゃ、遠慮なくいただこうかしら。」

 ひどく嬉しそうに、須永理事長は傍にある豪華なソファーに腰を降ろすと
ビール瓶の蓋を開けてコップに注ぎ始めた。理事長はアルコールには目がない
という大の酒好きである。

 彼女は黙々と本を読みふける博士の様子を見ながら、一人嬉しそうにビール
を飲んでいく。案の定、博士のために持ってきた二本のビールはいつの間にか
彼女が飲んでしまった。

「はあー、今晩は楽しいお酒ですわね。いつも一人なんですもの。」

 実質一人で飲んでるのと変わらない須永理事長だが、とにかく嬉しそうだ。
まあ誰もいないのと、近くに人がいるのではまるで違うのだろうと博士は思っ
た。それだけ彼女も普段、寂しい毎日を送っているのだという事が分かる。

「昔は、よく薫ちゃんと飲んで喧嘩したものですわ。もう随分一緒に飲んで
ないわね。」
「…呼んで飲んだらいいじゃないですか。」

 脚立の上で本を読みながら博士が言った。
いま博士は謎めいたシュメール人について書かれた文献に目を通していたが、
出土した「エラの神話」という文書によると、バビロニア文明の土台を築いた
のは「海からやって来た」謎の新参者たちだという。

 

 

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 様々な人種、民族が行き交う古代メソポタミア文明で最も謎めいているのが
シュメール人だ。彼らはどこから来たのか?どんな民族系等、言語系統に属し
ているのか?それらは今だに確定していない。シュメール語の言語系統は不明
であり、古代の言語系統の中でも完全に孤立しているのである。

 とすれば、彼らはメソポタミア周辺に古くから住みついている先住民族なの
ではないか?そして彼らがバビロニアの文明の土台を築き、ひいては古代オリ
エント世界全体、現代文明の形成にまで影響を与えているものたちだったので
はないか?


「…それは無理ですわね。薫ちゃんとは付き合いは長いけれど、いつも一緒に
いれば喧嘩ばかりしてますわ、きっと。」
「喧嘩も良いもんですよ。誰とでも出来るってもんでもないし…。」

 それきり理事長は言葉を発っすることはしなかったが、コップに残るビール
をちびちびと飲んでいた。


「あっ…そういえば、一つ気になる事が…。」
「…何ですか?」

 ソファーに深く座っていた理事長は、突然何かを思い出したように声を出し
た。

「先ほど見せていただいた、封筒に入っていた男性の写真…あのお顔どこかで
お見かけした事があるような気がするんですの…」
「えっ?何ですって…?」
  
 理事長の突然の言葉に、博士は本を棚に戻すと脚立を降り彼女のいるソファ
ーへと向かった。まるで予期していなかった情報が彼女から出てくるかも知れ
ないのだ。あの禿げ頭の男の素性が判れば、何か敵の正体について分かるかも
知れない…。

「一体あの男をどこで見たんです?」

 ソファーに腕を組んで、考えごとをしているような姿勢で座る須永理事長の
顔を覗きこむ…が、彼女はすでにいびきを立てて眠っていたのだ…。


 博士は一つため息を吐き出すと、自分のコートを脱いですでに夢の中の須永
理事長にかけてやると、お盆の上に残るビール瓶を手にする。それを頭上にか
ざすと、瓶の中には僅かの液体しか残っていなかった。

 それを彼女の飲んでいたコップにこつんと当て乾杯すると、博士はビールの
残りをラッパ飲みする。

「…にがっ!?」

 貴重な情報は明日の朝まで持ち越しか、と博士は渋い顔で脚立の上へと戻っ
ていく。

 博士の読書タイムは朝までまだまだ時間がたっぷりあった。理事長のいびき
をBGMに…。

 

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          (続く…)