ザ・怪奇ブログ

怪奇小説・絵画・怪奇の世界!

マテリアル2 最終話

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           27   デッドリーオルゴン


 その部屋は不気味な物で溢れていたが、中でも奇妙な物が本棚の裏側に隠し
てあった。それは小さな部屋になっていて、さながら実験室のようである。

 見た事も無いような実験器具やらが所狭しと棚に並び、何か得体の知れない
不気味な液体や物体がビーカーや試験管に詰まっていたのだ。その小部屋の中
は、何か嫌な匂いが充満している…。


「これは…。」
 しばらくして催眠効果が薄れ、まともに動けるようになった真理と共に隠し
部屋を覗いた博士が声をもらす。

 その小部屋の中央には透明なケースが置かれてあり、中できらきらと青白い
光のようなものが発光している…。

「この光…何なのかしら?」
「…オルゴンだ。そうか、あの目の輝きは…オルゴンのエネルギーか。」
「オルゴン…?何なのそれ。」

「…1939年にドイツから亡命したライヒという男が、滅菌した肉汁中の
培養基から見つけた未知の粒子だよ。青い光を放っているらしいが…そうす
ると、これがオルゴン・ボックスか…。自然界に偏在、充満するエネルギー
で、ライヒ本人は病気治療に有効だと考えていたんだ。」

 博士は真理の質問に、眉毛をひそめ透明なケースの青白い光を見つめなが
らオルゴンについて語る…。

「…この部屋を出ましょう。あの光はあまり見ない方が良い…。」

 そう言うと、博士は真理の背中を押すように小部屋を出ていった。


 蔵前氏の部屋に戻ると彼は今、警部補の隣で地べたに座り放心した表情で
ぶつぶつと独り言を呟いていた。もはや逃げる様子も無い…。

「もうじきここへ警官たちがやって来る。もちろん、ここへ来るのは私の長年
の知り合いたちだから、お前の手の者ではないぞ?」

 警部補の言葉に、蔵前教授は急に怒りの表情に変わった。

「…私は「法」では裁けんぞ?この私の頭脳がある限り、どこの国であっても
な…!事実そうして数百年と、渡り歩いて来ているのだから。」
「数百年だと?あんたは一体…。」

 その時、本棚の裏側から博士と真理が戻ってきた。

「…おそらく何らかの医学的方法で、数百年…いや、もしかするとそれ以上
生き長らえてきたのかも知れません。19世紀の魔術師メイザースも、オル
ゴン研究のライヒも…蔵前教授、あなたが影で糸を引いていたのでしょう?」

 驚きの表情を浮かべる警部補には見向きもせず、蔵前教授は博士と真理を
見据えて静かに言った。今、蔵前教授の蛇眼は輝きも失せている。

「…説明したところで君たちには解るまいだろうが…この私を法で裁く事は
出来ない。私は別の国で、また同じく生き長らえるのだ。この偉大な研究成果
と共にな…。」

「でも、そんなあなたが真理さんを是が非でも手に入れようとしたのは、いく
ら医学的な知識があろうとも肉体はどんどん老いていくからでしょう?だから
間宮薫の”細胞再生薬”が必要だった。」
「…………。」

 蔵前教授は無言でその場に座り込んだ。
もはや抵抗などするそぶりも見せずにいたが、誰も気ずかない間に、先ほど
真理のポケットから出した、丸めた鼻紙を手にして自分の背広のポケットに
入れた。

 ”…これさえあれば、この鼻紙一つあれば…細胞を抽出できる…!これで
細胞再生の研究は完成させられるのだ…!”


「さて、蔵前教授そろそろ連行させてもらいますぞ?逃げようなどとは考え
ないことです。外には陸軍も待機していまー」

 言いかけた時、突如として蔵前教授が襲いかかり警部補を力任せに床に引き
倒した。体格でずいぶん差のある警部補が、凄まじい力で倒されたのである。

「…警部補さん!」

 博士と真理の横を走り、蔵前教授は本棚の裏にある小部屋へと向かった。
その手に、何かの小さな試験管の瓶を持って。

「あの人、何する気かしら…!?」
「分からない…けど、逃げる気なのは間違いない。」

 と、小部屋から物凄い量の青白い光が溢れてきた。
そしてその光には、何か気分の悪くなるような匂いと、激しい頭痛のような
ものを伴っていた。

 だが、それよりも奇妙な事は、部屋の温度が急激に下がったことだ。

「…忌々しいが、私はここを去る事にする。だが、お前たちはみんなここで
死んでもらうぞ。黒いオルゴンで…一人残らずな…!」
「黒いオルゴンだって…?まさか…!」 

 博士が言いかけた時、隠し部屋から黒い湯気のような物が吹き出してきて、
どんどんと上にあがって流れてゆく…。

「…オルゴンを反放射させることで、治癒とは”別のもの”をここへ放射して
いるのだ。言ってみれば、核反応を起こした臨界状態のような…無限のエネル
ギーをこちら側に放ったのだよ。「死」というエネルギーをね…!」

 

 


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 蔵前教授がそう言うと、隠し部屋の入口から不気味な物が大量に溢れ出てき
た。それは何とも表現のしようもない代物だった。

 一見すると液体のようにも気体のようにも見え、また腐った肉の塊のように
も見える、生き物でもなく、物体でもない…奇怪な代物が、小部屋の青い光の
ケースから異臭を伴い、後から後から溢れ出てきた。

「…こいつはボックスのケースの光が消えるまで、この辺り一帯に広がり続け
、覆い尽くすぞ。ここは死のー」

 

 蔵前教授が言いかけた時、パンという乾いた音がして言葉を止める。
その後も何度も同じ音が鳴り響き、教授は声もなくその場に立ちつくしていて
、見下ろす胸からは赤い血が流れ落ちる…。

「…お前、警官のくせに…何を…?」

 警部補は床に倒れた状態から拳銃を全部命中させると、よろよろと後ろへ
倒れかかる蔵前教授に言った。

「…法で裁けないと言ったのはあんただからな。おまけに私は来月には定年
でな?始末書の一枚や二枚、怖くはない。もっとも、始末書で済めば、な。」

 倒れ込んだ蔵前教授は、数発の銃弾に撃たれながらも生きていたが、溢れ
出てくる不気味なものに飲み込まれていった…。

「部屋を出ましょう…!ここは危険だ。」

 博士は警部補を起こすと、真理と共に蔵前教授の部屋を出ていく。
ドアを閉める間際、蔵前教授の断末魔の悲鳴が響き渡った…。


 廊下にはすでに騒ぎを聞きつけて部屋から出てきた寮生たちが、ちらほらと
顔を覗かせていた。廊下にはすでに蔵前氏の部屋から異臭が漏れだしている。

「あなたたち、急いで外に出てちょうだい!危険な物が…とにかく急いで!」

 真理が叫びながら寮棟を駆け回っていると、階段の下から須永理事長がやっ
て来た。
「真理さん、何があったの?」
「理事長…ええと、そう!毒物が流れ出たんです!みんな外に避難させて下さ
い!」

 須永理事長は目を丸くして、その場に固まってしまった。
おまけに真理の白衣の裾を握ったままで…。

「…理事長、私は寮生たちの避難を…あっ、探偵さん!あなた、理事長を頼み
ます!」
「あ、ああ…。」

 慌てながら真理は須永理事長を博士に任せて、寮の廊下を走っていった。
すると、今度は博士のコートの裾を掴んで離さない須永理事長は、震える声で
質問してきた。博士は逃げようにも逃げられない。

「あ、あ、あの…一体何が起きたんですの?」
「…と、蔵前教授がですね、一連の事件の黒幕だったんですよ、黒幕!」

 廊下に響き渡る悲鳴と、寮生たちの逃げる様子に腰を抜かし気味の理事長は
、肩と胸が大きく開いた服装で博士に抱きついてくる。

「えっ?くるまぶって…甘く煮つけたお麩ですよね?蔵前さんって…車麩だっ
たんですの?」
「…黒幕っ!何で蔵前教授がくるま麩…って食べ物じゃないですか!あんた、
本気で言ってんのかい…」

 博士の言葉に瞳を潤ませる須永理事長は、廊下に溢れ出てきた得体の知れな
い物体を見て、その場に飛び上がった。

「ああ、あれ、あれ…何ですの!?」
「あれは…反放射性のオルゴンだ。生命の反対…写真でいえばネガみたいな
もの、死の塊ですよ…て、こんなとこにのんびりしてられない…!」
「お、オルゴン!?」

 壁に寄り掛かったまま、博士は腰が抜けた須永理事長にひっつかまれた状態
で、もうすぐそこまで見るもおぞましい物体が流れ溢れるように廊下をやって
来ている。

「ちょっと失礼…!」
「あらぁん…!?」

 腰の抜けた須永理事長を担ぎあげ、博士は下への階段を降り始めた。
振り向くと、先ほどいた場所にも不気味な物体が流れ込んできていて、あと
数秒じっとしていたら蔵前教授のようになっていた事だろう…。

「あの、私、オルガン?ていうの知ってます!光さんがここを出る前に、私に
くれた物があるんです。もし、オルゴンで困る事があったら、使ってちょうだ
いって…!」
「…光さんが?それどこです?」
「私の、理事長室です!」

 

 一階へと降り理事長室へとやってきた博士は、大きなソファーに須永理事長
をぶん投げる。長いスカートがはだけて理事長は楽しそうに可愛いらしい声を
上げたが、博士は気にした様子もなく光が置いていったという物を手にした。

「これは…。」

 その小箱の中にはもう一つ箱が入っていて、小さな手紙が添えられている。
博士はその手紙を読んだ。

 

 

『…敵は私と同じくオルゴンの力を使っています。もし、その力を敵が悪用し
た時は、この小箱をその中心に投げ込んでね!なんか上手い事、力の流入
抑えてくれるはず…よね?うん、たぶん…!
                 
                 グッドラック!   ひかり  』

 

 

「…その中心…あの隠し部屋の青い光のボックスだ…!」

 博士はその小箱を手にすると、理事長室の出口へと急いだ。

「あの…何だかよく分かりませんけど…お気をつけて。後でお飲み物などを
ご用意しておきますね?」
「あー、ありがとう。それより理事長さんも急いで避難して下さいよ?」

 須永理事長は、大きなソファーから身体を起こすと、部屋を出て行く博士
に手を振り、にっこり微笑んだ。

 
 博士が部屋を出ていくと、須永理事長は何事もなかったようにソファーから
立ち上がると、鼻歌まじりにお茶の用意を始めた。

 

 


 理事長室を出て中央広間まで戻ってきた博士は、そこで警部補と真理に出
くわす。すでに、大学内の人間ほとんどが外へと避難したようである。

「…我々も外に出よう。一体何が起きるか見当もつかん。」
「いや、これを止める手立ては光さんが教えてくれました!この小箱がきっ
と事態を収拾してくれー」

 その時、広い中央広間の二階天井付近の壁を突き破って何かが飛び出して
きた。

「…何よあれ…!」

 壁のあちこちから、不気味な物体が溢れ出していたが、天井付近にさらに
奇怪な代物が出現したのである。それは蔵前氏の部屋で見た、死者を形造っ
た彫像に似ていた…いや、似ているとかではなくその物体は紛れもなく死者
の姿そのものであったのだ。

 

 

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 しかもそれは人ばかりではなく、犬や猫といった動物から見た事もない奇怪
な生物まで…ありとあらゆる生き物の死の姿を形造った物の集合体であった。
それは建物そのものに浸透し徐々に同化しつつあるように思えた…。

「…たぶん、核エネルギーが”別の場所”から膨大な量の中性子や原子をこち
らの世界にひっぱり込むように、あれは”死の世界”の扉を開く門のようなもの。
我々が今ここで目にしているものは、別な世界から溢れて出た物質…死その
ものなんだ…。」

 真理は天井付近の、奇怪な代物を見つめ唖然とその場に固まってしまって
いた。その醜悪な姿は、見ているだけで心が凍るようだったが、実際大学の
温度も低下しているようだった。建物の中でも口から白い息が漏れている…。
壁を突き破って現れた奇怪な物体付近から、黒い霧のような物が漂い出してき
て、強烈な寒風を伴う冷気が吹きつけてくる。

「…警部補さん、真理さんを連れて外へ避難して下さい。私はこの小箱で…」
「分かった…行こう真理さん。」

 放心状態の真理を連れて、警部補が玄関ホールへと歩き出すのを見た博士は
、二階への階段を駆け上がる。すでにあちこち不気味な物質だらけで、足の踏
み場もなかったが、そのゼラチン状の肉塊事態にこちらをどうにかする力はな
いようだった。それらは”あちら側”と繋がったために、こちらに溢れ出てきた
不純物のようなものだろう…。

 むしろ危険なのは、そのおぞましい異臭にありそうだった。
それとともに、なんというか…ここにいるだけで力というか生命が吸われてい
くような気がした。博士は、これこそがライヒの研究所で発生したといわれる
「デッドリーオルゴン」死のオルゴンと呼ばれる現象なのだろうと思った。

 博士は口元をハンカチで押えて、二階の寮棟を走り抜ける。元々暗い大学の
廊下は、黒いもやのような物で覆われていた。そして蔵前教授の部屋の前まで
来ると、そこに一人の若い講師の姿が見えた。

「…おい、君!早く外に逃げろ、こんなとこで何を…」

 その女性講師は、博士の言葉が耳に入らないようで、青白い光が漏れている
蔵前教授の部屋の中へと入っていった。博士はその後を追いかけ、部屋へと入
っていく。

 部屋の中は、ちょうど中央広間の天井から出てきた死骸の塊の裏側にあり、
広い部屋の半分以上はその醜悪な物体で溢れていた。

「…なんて美しい…!蔵前教授のおっしゃられていた通りだわ…!」

 女性の講師はふらふらとそのゼラチン状の物体へと近ずいてゆく。
何か恍惚とした表情で…。その蔵前教授は物体のすみの方に死者の残骸と共に
無表情で飲み込まれるように消えていった。何百年、あるいはそれ以上生き続
けてきた歴史上の異人も、他の死骸と同じくまるで焼却場のゴミのように…。

「馬鹿な…!」

 博士は同じく物体に飲み込まれるように消えていった若い女性講師を見て、
…いや、この醜悪な代物を見ているだけで気分が悪くなった。そして、何故だ
かその時、博士は秘書の女性を思いだした…彼女が楽しそうに笑う姿を…。

 それを思うと、一刻も早くこんなところを出て彼女の笑い顔を見たくなった。


 我にかえった博士は急ぎ足で青白い光が脈動する、本棚の隠し部屋の方へと
向かった。そこはまるでブラックホールの入口のように黒々としたものが渦を
巻いていて、凍えるほど気温が下がっていた。

 その黒々とした渦の中心に青白い光が見える…。
博士は小箱の蓋を開けると、数メートル先の渦の中心に放り込んだ…。

 

 

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 …こんな恐ろしいエネルギーも知識も、我々には必要ないんだと博士は思っ
た。こんなものを学問として研究したり探求する事は、この惑星に住む人類に
は手に余るものなのだ。それは原子力も同じ…人が扱うのには危険すぎる。

 一瞬だけ激しい火花のようなものがちり、大きな白い光の輪が黒々とした渦
を覆い尽くしてゆく…。博士はその間、その場にうずくまるようにじっとして
いたが、激しい光が徐々に弱まり始めるとゆっくりと薄目を開けて部屋の中を
見回す…。


 隠し部屋にあるボックスはまだ僅かに淡く青い色の光を放っていたが、黒い
渦のようなものは消えつつあった。部屋や壁じゅうにぶちまけられていたゼラ
チン状の物体はそのままだったが、徐々に乾燥していくように萎んでいく…。

 なにより、大学内に充満していた不快な異臭と異常な冷気は、どんどん元の
状態へと戻っていくようだった。むしろ爽快な心地良さすら感じられる。
部屋の半分を占めていた死骸の塊も、半分以下に萎むというよりは分解してゆ
くような勢いで消えてゆく…。

「…どうやら薬が効いたらしいや。」

 博士はボックスの光が完全に消えたのを確認すると、蔵前教授の部屋を出て
、静寂に包まれた階下の中央広間へと降りていった。


 その不思議な心地良さが、長らくこの地に続いた忌まわしい出来事の終わり
であるのだと、博士には感じられたのである。

 

 大学の中には、すでに外に待機していた陸軍の科学部隊が何人か入ってきて
いて、何やら消毒液のような物を散布して洗浄していた。警部補と真理の二人
も玄関ホールの入口辺りに待機していて、ゆっくりと歩いてくる博士を見つけ
て手をあげる。理事長室の方向から、須永理事長もゆっくりと中央広間へとや
ってきた。

「…ねえ、何か変わった気がしない?空気が澄んでいるみたいな…。」
「あら、そういえば…いつもの偏頭痛みたいなのがないわねぇ。」

 みな同じように、この大学の内部に漂う空気のようなものが、変わったよう
な雰囲気を感じていた。今までずっと続いた、重苦しいような雰囲気がまるで
感じられない…。

「たぶん、蔵前教授とあの闇の箱がこの辺り一帯になんらかの影響を与えてい
たんだと思う。負のエネルギーをね…それももう終わりだ。」

 

 その時、博士のポケットの中の携帯が鳴った。
通話の相手は近くの総合病院にいる秘書の女性からだった。

「…そうか…分かった、伝えるよ…。」

 携帯の通話を切った博士が何やら硬い表情で言った。

「…真理さん、光さんが…こっちの総合病院へ搬送されたそうだ。出来れば…
行ってあげてくれないか?」

 博士の言葉に一瞬だけ大きく目を見開いた真理だが、小さく頷くと玄関の
出口の方へと駆けだそうとした。

「あっ、ちょっと待った…!」

 振りむいた真理に博士が渡したのは、たれ犬のぬいぐるみである。
双子岳のロッジに落ちていたのを拾っておいたのだ…。

「ありがとう…!」

 それを手に真理は駆け足で玄関を出ていくと、振り返ることなく駐車場へと
走り去った。


「…私も一度、病院へ向かうよ。馬鹿な部下から事件のあらましを聞き出さね
ばならんからな…。もっとも、口が利ければだがね。いや、私の部下が敵に内
通していたとはな…君たちを危険な目に遭わせてしまった。後の事は、全て私
や陸軍の連中に任せてくれ。」

「ああ、警部補さん、色々ありがとう。旅にも付き合っていただいたし!」

 博士の言葉に警部補は鼻の頭をかいて、帽子をかぶり直すと片手をあげて、
玄関の方へと向かいゆっくりと歩いていった。


 真理と警部補がこの場を去り、陸軍の非常事態専門のチームが大学内を調査
し始めると、急に騒がしく慌ただしい雰囲気になってきた。

 博士はどっと疲れが出てきて、壁際に座り込む。
なにせ昨日の昼から、まるで休む間もなくめまぐるしい出来事が続いていたの
だから。

「…そうだ探偵さん。お茶の用意が出来ておりますわ?」

 一人ぽつりと立ちつくしていた須永理事長は、ちょうどいいお茶呑み相手を
見つけて声をあげた。

「…それじゃ、一杯御馳走になろうかな?」

 博士はゆっくりと立ち上がり、うきうきしながら自分の部屋へと戻る須永
理事長の後についてゆく。


 この旧ブルクハルト芸術大学から続く奇怪な連続事件が、ようやく全ての
終わりを迎えようとしていた。文字通り、これから…。
  

 

 

 


亡き王女のためのパヴァーヌ/モーリス・ラヴェル【オルゴール】癒し・睡眠・作業・BGM

 

 理事長室の中は、まるで外の大騒ぎが嘘のように穏やかな音楽が流れ、紅茶
の良い香りが漂っていた。

 須永理事長は、唯一大学に残った話相手である博士に紅茶を入れながら鼻歌
を歌っていた。

「…ラヴェルパヴァーヌですか?」
「ええ。この曲好きなんですの。」

 しかし博士には何故だか須永理事長の鼻歌が、なんとも悲しい音色に聞こえ
ていたのである。亡き王女のための…パヴァーヌ…。


 ソファーに座る博士の前にある豪華なテーブルに入れたての紅茶を置いて、
須永理事長はすぐ隣に座った。

「お疲れ様でございました。ああ、もしかして冷たいビールの方がよろしかっ
たですか?」
「いや…紅茶で十分ですよ。」

 すぐ隣で、にこにこと笑う須永理事長は持ってきたビールをテーブルに置く
とソファーに戻り足の上に手を置いてじっと黙り博士の方を見つめる。

「…理事長もどうぞ。ビールでいいかな?」
「あら、よろしいんですか?では、お言葉に甘えて…。」

 博士はグラスを手に持つ理事長にビールをついでやると、彼女はぐいっと
ひといきで飲んでしまった。なんだかとても嬉しそうに…。

「…さて、理事長。一つだけ、伺いたい事があるんですよ。」
「うん?何でしょう…?」

 須永理事長はグラスをテーブルに置くと、ソファーに座り直して博士を見つ
めた。いつものようににこにこと柔らかな笑顔の理事長だが、僅かに目が泳い
でいるのを博士は見逃さなかった。

 

「…今回の事件、いや…あの旧ブルクハルト大学時代にまで遡った事を考えて
どうしても気になる事があるんですよ。」

 小刻みに頷いて見せる須永理事長は、とても四十を過ぎた女性とは思えない
若々しい美貌の持ち主である。

「…一連の事件の元凶は、蔵前教授の邪悪な欲望からなるものでした。ですが
、私にはもう一つの意思のようなものを感じていたんですよ。」
「…もう一つ?薫さんの事じゃないんですか?」

 

 …理事長は小箱を渡した後、この部屋に留まりお茶の用意をしていた…。

 

「ええ、それはそうでしょう。しかし…もしもその間宮薫さんに協力者がいた
としたら…」
「………協力者…?」
「おそらく、あなただ。」

 博士の言葉に一瞬だけ驚いた表情を浮かべた須永理事長は、その後でけらけ
らと笑いだした。博士は彼女のグラスにもう一杯ビールを注いで続ける。

「…何だか楽しそうなお話ですわ。先を聞かせて?」

「ええ、そもそも今回の事件で薫さんは一人では到底、蔵前教授の闇の陰謀を
暴く事など出来なかった。かと言って、真理さんを守るためにはこの大学へと
やって来なくてはならない…そこで、まず薫さんはあなたに連絡を取ったので
しょう。たぶん携帯で…。光さんの携帯は、双子岳のロッジの廊下の隅に粉々
に踏みつぶされてありました。最後にあなたと連絡を取り合った後、薫さんは
その証拠を消すためにそうしたのでしょうね。」
「あら…それで?」

 先ほど注いだグラスも、いっきに飲み干した須永理事長は楽しそうに頬杖を
ついて博士の推理を待つ。

「…影に潜む黒幕を騙すためには、薫さんは別人を装ってここへ戻らなければ
ならない…そのために犬猿の仲であったという、あなたと仲良く振る舞う事で
黒幕に薫さんと光さんは別人だと思わせる事が出来たのです。もちろん真理さ
んの態度によるところも大きいが…。」
「だって、それは光さんがほんとに姉妹の姉だと私が信じたからで…。」

「そうでしょうか?いずれにしても、光さんが昨日お昼にここを旅立った後、
三度ほどどこかに携帯をかけるため一人になっています。たぶん、ラガーシャ
ツの刑事がこちらの情報を警部補から得ていたように、薫さんも大学の様子を
あなたから得ていたんだと思う。ことにあの若い刑事の事を…光さんは最後の
電話の後、やって来る殺し屋たちにすでに臨戦態勢をとっていました。」
「…あくまで推測ですわ。」

 …彼女はずっと頬杖をついて微笑んでいる。
頬杖をつくしぐさには、心理学的には心配事や欲求不満などがあげられ、自分
の顔を触る事で安心を得ようという行為でもあるそうだ。

「…ところが、あなたと薫さんがずっと前から顔見知りだという証拠があるん
です。今回の事件が起きたあとで、私の秘書である早紀君の親友にあなたの事
も少し調べてもらったんだよ。その親友は新聞記者でね、あなたが二十代の頃
にキャバレーで働いていた事があると調べてくれました。これは警察の知らな
い情報です。」
「……それと薫さんの事と、どう繋がるんですか?」

「実はですね、これは警察の情報なんですが、当時そのお店の掃除婦として、
薫さんがバイトをしているんです。まだ講師を目指している途中の、間宮薫さ
んがね。あなたが勤めていたキャバレーに…こんな偶然はないでしょう?」
「…………。」

 

 

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 その博士の説明を聞いて、しばらく黙っていた須永理事長はスカートのポケ
ットから細いパイプを取り出すと、自分の指で鮮やかにぐるぐると回転させて
から口に咥える。彼女の目つきは先ほどまでの穏やかなものではない…。


「…あなたは数年前の事件も、今回の事件も、いつもその中心、現場にはいな
かった。それはつまり…あなたがそれらを”あらかじめ知っていた”からなん
ではないかと思うんですよ。いや、もちろん推測でしかありません…。」

 彼女はソファーに深く腰を沈めると、長い足を組み替えて、パイプに火を
点けると二度ほど吐き出してから話しだした。


「…そうよ、薫ちゃんと私はあのキャバレーで出会ったの。絵画の勉強ばかり
していた私は家を飛び出した…家は名家でね、絵の勉強なんてもっての他だっ
て両親は言ってたわ。そこで掃除の仕事をしながら講師になる勉強をしていた
薫ちゃんにすっかり意気投合したの。たくさん話したわ…薫ちゃんは何でも私
に話してくれた…あの、恐ろしい大学の乗っ取り計画を立てたのもその当時か
しらね?彼女は母親に怒りを持ってたの。まあ、私も似たようなものだったし
、彼女の計画に賛同したの…でも…。」

「途中でアクシデントが起きた…ですね?」

「…そう、真理さんが自分が犯人だと命を落としたのよ。あの時の薫ちゃんは
かわいそうで見ていられなかった…私たちの計画が間違ってたと気ずいたの。
きっと真理さんが教えてくれたのね。あの事件以降も、私と薫ちゃんは連絡を
取り合っていたわ。私たち二人の目的は…真理さん、あの子を見守る事。あの
子を守るためならどんな事でもしよう…それが私たちの目的になったの。」

 と、パイプを持つ手を下げ、須永理事長はうなだれながら涙を流し始める。
全ての事件が終わりを迎えた今、彼女らにはあまりにも代償は大きかったので
ある…。

「…あとは、あなたの推測どおりだと思うわ。結社の首領だった蔵前教授が
亡くなった事で、今度こそこの大学はゴミ掃除が出来た…真理さんの命を奪
おうとする者もいない。でも、一つだけ言わせて、薫ちゃんは誰も殺してい
ないわ!人が亡くなっていたとすれば、それはきっと蔵前教授たちの仕業な
のよ…!それだけは信じてほしいの…。」

「ええ、信じますよ。あのロッジに倒れていた殺し屋たちでさえ、一人も命
を落とした者はいませんでしたからね。」

 

 と、須永理事長は急にきちんとソファーに座り直すと、真剣な表情で博士
に言った。

「…警察に、この話をしますか…?もちろん、私は覚悟はしています。」

「いや、やめときましょう。それこそ、あなたのような人物が自首でもすれ
ば、またしても波風が立ってしまい、事件が明るみに出てしまうかもしれな
い…それは今回の事件の決着としては、よろしくない気がする…それだけ伝
えておこうと思って、ここへやって来たんですよ。でなきゃ、あなたは自首
していたでしょう?」

 予想していなかった博士の言葉に、きょとんとして須永理事長は固まった。

「あの…私は、これからどうすればいいでしょう…?」
「いつもの通りでいいんじゃないですか?笑っていて下さい。」

 博士はもう一杯グラスにビールを注ぐと、立ち上がり須永理事長の頬を撫で
て言った。

「時々秘書の早紀君と、お茶をご馳走になりに来ますよ。それでは…。」
「…はい。お待ちしておりますわ。」


 須永理事長は涙で濡れた頬を手で拭うと、両手で持ったグラスをいっきに
飲み干してにっこりと笑顔を見せた。

 

 

 


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 街の総合病院へとやって来た真理は、汚れた白衣のままで病院内を小走り
で駆け抜ける。

 この一日の疲れも、先ほど蔵前教授にかけられた催眠術の後遺症のような
めまいも、今は関係なかった。だって、ここにはあの人が…光さんがいるの
だから…。

 手にはあの、可愛くない犬のぬいぐるみを持って…。
これは、光さんがどうしてもほしい、と言って手にいれた物だった。


 言われていた部屋の前まで来た時、真理はそこで足を止めた。
その部屋は暗い廊下の先にあり、中から明るい光が漏れている…。

 その同じような情景を、真理は見た事がある。
意識が無くなり、暗いところを彷徨っていた時に遠くの方に見えた美しい光
…生死の境を彷徨っていた時に見た、あの光の情景によく似ていたのだ。

 もちろん、その時の真理は、美しい明かりの方へと向かって歩いていった
のである…。


 真理は静かにドアを開けた。


 部屋の中は明るい電気が点けられていて、眩しいくらいだったが、手術用の
見た事も無い機械や道具が部屋の隅に並んでいて、医者や看護婦と共に、探偵
の秘書である早紀の姿も見えたような気がした。

 と、いうのも、真理の両目はすでに涙で溢れていて、部屋の中の景色がぼや
けていたからだ…。

 部屋の中央には大きなべッドがあり、全身包帯だらけの者が背を高くして
横になっているのがようやく見えてきた。その人物は、やって来た真理の姿
を見つけると、僅かに包帯で吊るした手を動かす…。

 

「…どんだけ不死身なのよ…あなた。」
「だって…。」 

 なんとか上体を起こした光の膝もとに真理は走り寄ると、うつ伏せになり
子供のように泣きわめいた。

「…もう置いてかないで…!一人で残されるのはもう嫌なの…!」

 膝もとにすがりつくように泣きわめく真理と同じに、光もぼろぼろと涙を
こぼして頷いていた。


 秘書は二人の涙の再会にもらい泣きしながら、静かに治療室のドアを開けて
部屋を出ていった。

 

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               エピローグ


 恐ろしい事件の終結から一ヶ月が経った。
この土地に数十年という長い年月、密かに君臨してきた秘密の結社は、その
首領でもあった彫刻美術の準教授である蔵前氏の最後と共に姿を消した。

 事件後も彼については謎の部分が多かったが、旧ブルクハルト芸術大学
設立した当初、この地へとやって来たようである。それ以後、理事長を操り
数十年に渡りこの大学…結社を支配してきたようだった。

 彼はオルゴンというエネルギーを研究する傍ら、不老不死の研究を続けて
いたようである。彼の死後、この土地に起こってきた奇妙な事件、そして謎
の現象も起きる事はなくなったという。


 双子岳の断崖へと飛び降りた稲本光は生きていた。
もっとも、あと少し救出するのに時間がかかっていれば、崖の底深くのクレ
バスに落ちて、二度と引き上げる事はできなかっただろう。運よく岩のくぼ
みにひっかかり、クレバスへの落下をまぬがれていたのである。

 その危険な救出も、探偵でもある秘書の女性が必死の願いで陸軍の部隊を
動かしたことで叶えられた。

 光はあの時、催眠効果に操られ真理を襲おうとしていた。
それを防ぐためには、自ら崖下へと飛び降りるしかなかったのである…。
蔵前教授の催眠術は、人から人へと効果を発来する恐ろしいものだった。

  

  そして全身に打撲や骨折の包帯だらけだった光は、一ヶ月の入院で驚くほ
ど早く完治していった。もちろん骨折などはまだ包帯で肩から吊っていたが、
自分で歩いて退院したのである。その異常な回復こそが、彼女の人生を大き
く変えた要因でもあった。それは、真理にとっても同じである。

 

 退院の日、光は病院の入口へとやって来た警部補に、自分が間宮薫である
という事を告げ、出頭の意思を伝えた。だが、警部補から返ってきたのは意
外な言葉であった。

「…馬鹿な事を言うんじゃない、間宮薫は三年前に亡くなった人間だ。死んだ
人間が戻ってくる事はあり得ない…君は稲本光だ。一緒に旅までした私が言う
んだから間違いない。それとも、今でも君は三年前と変わらぬ人間だというの
かね?」

 しばらくの間、二人は緊張したままその場で立ちつくしていた。
そして、警部補は光のようにおどけた表情でウインクして見せる。

 

「いえ…間宮薫は三年前に死にました。死んだ人間は帰ってはきません。」

 光はそう言って笑うと、警部補に深々と頭を下げた。

 

 

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Raymond Lefèvre _ めぐり逢い _ Comme Au Premier Jour _ レイモン・ルフェーヴル・グランド・オーケストラ

 

 

 十月の終わり、良く晴れた日曜日の朝…。

 あれから一ヶ月…聖パウロ芸術大学は、捜査と修復作業のためにばたばた
と慌ただしい毎日だったが、ようやく事件は終結を迎えようとしていた。


 しばらくの入院と治療のため日本に滞在していた光は、今夜の飛行機でニュ
ジーランドへと帰る。この一年、光は東南アジア周辺の孤児たちを支援する
活動に参加していた。自らも孤児だった光が選んだ、最良の仕事である。

「もちろん、彫刻も学校やら施設やらに提供するために作り続けていくわ。」

 聖パウロ芸術大学の玄関先で真理の車を待つ光は、やって来た時と同じ服装
で帰っていく。

「間宮…いえ、光さんの講義、受けてみたかったなぁ…。」

 すっかり元気な表情の雪恵は、日曜の朝から光さんの見送りにやって来た。
あの双子岳で蔵前教授の催眠を解かなければ、雪恵も今ここに元気な姿を見せ
てはいなかったのである。

「今はもう真理先生の方が実力は上よ?」
「私もいつか、彫刻の講師になるの。真理先生や光さんみたいな素敵な講師
に!」
「…それで汚れた白衣を着っぱなしで、食堂の隅っこでコンビニ弁当とか食べ
てるわけね?」

「私はあなたたちと違います!油でぎとぎとのお肉とか、皿いっぱいのヨーグ
ルトなんか食べませんから!」

 雪恵の笑顔に釣られて光も笑う。
この子の明るい笑顔を見ていると、光は大学時代の真理を思い出す。

「…雪恵さん、光さんの荷物運ぶの手伝って?」
「はーい!」
「私も手伝いますね。」

 

 車から降りた真理が雪恵に言うと、玄関にいた秘書の早紀と共に雪恵も大学
の中に入っていった。玄関には光と理事長、そしてぼうず頭の探偵だけとなっ
た。

 

「…ほんと、私たち運が良いわ。こんなに幸せな解決を迎えられるなんて!」
「そりゃあ…二人の魔女には、さすがの蔵前氏もかなわないさ。」

 博士が二人の女性を見ながら言った。
光は須永理事長の方を見やると、吹き出して笑った。

「あの…私も魔女なんですの?」
「たしかに!私たち二人…魔女みたいなものね。それにしても…よくその魔女
二人の計画をあなた暴けたわね。どうやって見抜いたのかしら?」

 光の不思議そうな言葉に、博士はなんともあっさりと答えて言った。

 

 「…二人とも泣き虫だからさ。優しすぎたんだよ、人に対して。そんなあな
た方が、真理さんのために何かを画策していない筈はないと思ったのさ。
それだけだよ。」

 その驚きの理由に、光と須永理事長は、あっという間に大きな瞳がうるうる
しだした。二人とも目張りの濃い化粧が涙で流れる…。

「それそれ!いつも泣いてるから二人ともメイクの流れ後が出来てパンダみた
いになってる。」
「だって…そんな理由ってないわ…。恥ずかしくてあなたたちに逢えない…。」

「大丈夫!あとで金よこせなんて言わないから。」

 博士は自分のコートに両手をつっこみ、笑った。

 

「あれ?光さんも理事長もどうしたの?」

 荷物を持ちながら玄関へと戻ってきた真理は、必死に涙を拭いてる二人に
小首をかしげる

「…!」

 光は傍へやって来た真理を、皆が見ているのも構わずに両手で抱きしめた。
一瞬びっくりした真理も、目をつむりじっと光の匂いと暖かな抱擁に身を預け
た…。

「真理…私の事忘れないで…。」
「…今度来るときは、もう少し大人になっててね。」
「無理よ…でも、必ず遊びに来るから…。」

 

 …二人は暖かな秋の日差しの中、いつまでもそうしていた。

 

 

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       (了)