ザ・怪奇ブログ

怪奇小説・絵画・怪奇の世界!

夜の観覧者 12話

 

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            12  二人の魔女


 10月7日 金曜 深夜から朝…

 東京から少しだけ離れた地方都市の、高層ビルの二十二階にそのテナント
はあった。その階の半分くらいを占める広いスペースに、様々なアンティー
品が並べられている。

 一見すると高級家具や小物を扱う普通の展示会の様であるが、置かれ販売さ
れている品物は様子が違った。骸骨をモチーフとした燭台、女性のヌードが彫
り込まれたテーブル、奇怪な絵画や蛇のオブジェなど、出来栄えは素晴らしい
が恐ろしくも不気味な物ばかりが展示されてあった。

 おまけにフロアの照明は薄暗く、青や赤紫というどぎついもので気味の悪さ
をかもし出していた。店内にはちらほらと人がいて、何かを求めてうろついて
いるが、身なりや物腰は上品で皆、上流階級か金回りの良さそうな者たちばか
りである。

 その奇妙なテナントの外れにあるバーのカウンターで、聖パウロ芸術大学
理事長である須永良美は、開いた携帯に親友から目的地に着いたとのメール
があり、安堵のため息を漏らした。

 

「…何かお飲み物でも?」
「じゃあ、バーボンを一杯いただくわ。」

 カウンターの向こうから、初老の老人に近い白髪まじりのバーテンダーが、
声をかけてきた。良美はお酒を注文すると、広くて薄暗い店内を眺める。
ここへ来るのはこれで三度目になるが、今日はこれまでで一番お客が少なか
った。来るたびに人が減っていってるのは何か理由があるのだろうか?

「どうぞ。」
「ありがとう。」

 カウンターに両肘をつきながらロックグラスのバーボンを涼しい顔でいっき
飲みした良美は、にっこり笑うとバーテンダーの前に両手でグラスを置いた。
えらくきついバーボンだったが、アルコールに強い良美にはとても美味しく飲
みほしてしまった。

「もう一杯いただこうかしら。」
「はい。ここに来るお客で一番良い飲みっぷりです。」

 バーテンダーが二杯目を注いだ時、バーに一人の男がやって来た。
先ほど良美が店内を回っている時、ちらちらとこちらに興味を持っていた男
である。

 

「お嬢さんお一人ですか?お隣座ってよろしいかな?」
「どうぞ。」

 男は同じものを注文すると、バーテンはカウンターの外れの方へ行った。
その男は四十代くらいに見えたが、歳の割には落ち着きが無かった。

「先ほど絵画を見ていられたようですが、絵に興味がおありですか?」
「ええ、ちょっとしたお店を開いているもので…。」

 そう言うと良美は長いスカートを片手でまくると、太腿のガーターベルト
ら一枚の名刺を取り出し、どきまきする男に手渡す。もちろん名刺に書かれた
お店の名前も、自分の名前も全て偽物である。

「しかし…ここはどなたの紹介で?」
「…川村って弁護士さんに教えていただいたんですの。」

 その名前を聞いて、男は一瞬だけ眉毛をひそめる。男は明らかに川村という
男を知っているようだ。

「あら、お兄さん川村弁護士を知っていられるんですか?あの人、ここ最近
姿を見せなくて私、困ってるんですわ。」
「…悪さでもしたんですか?あの男の事ですからな…」

「そうなんです。お兄さん、あの人お金を持って姿を消しちゃったんですのよ?
どこに行ったか…ご存知ありませんか?」

 良美は隣に座る男へとさらに近ずいて頬杖をついて微笑みかける。
彼女は肩と胸元が大きく開いた紫色のドレスを着ていて、歳の頃は三十代くら
いに見えるがひどく仕草が可愛らしい。おまけに、化粧は少し濃いがそうそう
身の回りにはいないほどの艶やかな美人である…。

「…私はそれほど奴の事は詳しくはないのですが…」
「ええ、どんな事でも構いませんわ。」

 大きな胸の谷間をさらに近ずけながら良美はつぶやく。
男は何か危険なものを感じながらも、目の前の生々しい女性の魅力には逆らえ
ずに、ぼそぼそと話しだした。

「…川村の奴、一昨日の夜にここに来ると、仲間内に言ってたんだ。」
「…何て?」

 良美は男に自分の顔を近ずけながら口元に囁く…。

 

「…奴らに裏切られたって。あいつ、これから逃げると言ってた。」
「奴らって?どこに逃げたのか知ってる?」

 男は首を振りながら、目の前の彼女を見つめる。
聖母のような柔らかい表情で笑う彼女が、男には段々恐ろしく思えてきた。
この街を逃げ出すと言っていた川村の行方を追っているという女…。
川村の仲間たちが、この一週間のあいだに次々と謎の怪死を遂げているのは
一体何者の仕業なのか…。

”たしか…仲間の一人が、魔女がどうとかっていう話をしていたような気がす
る…魔女だって?そう…暗闇の魔女だ…!”


 と、僅かな時間考え事をしていた男は、次に隣の女を見つめた時、驚き
のあまり椅子から落ちた。彼女は先ほどまでの聖母のような笑顔ではなく、
いらいらと口にパイプを咥えながら、猛犬の如き表情で言った。

 

 

 

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「…あのコソ泥、どこにばっくれたかって聞いてんのよ…!!」


 男は飛びあがり、辺りを見回し始めると何かに怯えるようにバーを離れ、急
ぎ足でこのテナントを逃げるように出て行った。

 

 

 

 

 

 

 


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 時刻は深夜の二時を過ぎた頃、夏美の部屋にはまたも新たな客がやって来て
いた。たった今、下の玄関先で何者かに襲われそうだった涼子を救った金髪の
女性である。

 歳の頃は三十位か?あるいはそれ以上だと夏美には感じられた。
金髪の髪の毛に緑色の瞳…背も高い。たぶん170センチはあるだろう。
普通に見れば外国人、おもに白人だと思えるが…ヨーロッパに数年住んでいた
夏美には、この女性の雰囲気から純粋な白人ではないなと思った。瞳の色や、
身長を除けば日本人的な顔立ちをしているのだ。

 先ほどまでぎらぎらと輝いていた瞳は、今は普通にへーゼルグリーンに煌め
いていて、涼子と共に夏美の部屋へとやって来た金髪の女性は挨拶もそこそこ
に部屋の中を見回し、天井付近を静かに見つめていた。

「…光さん、お久しぶり!」
「二年ぶりかしら?二人共元気そうね!」

 秘書は金髪の女性…光に声をかけると、彼女は懐かしい二人を見つけそちら
へと足を向ける。

「あの時の傷は大丈夫?痛む事ない?」
「ええ、むしろ前よりも調子が良いくらい!」

 そう言いながら光は秘書の早紀に抱きついて、再会の喜びを表した。
と、秘書は光に抱きしめられると幸せそうな表情で、急にふにゃふにゃと力を
失ってその場に崩れ落ちる…。


「あ、あの…探偵さん、こちらの方は?」

 部屋の女性陣の中で、頭一つ背の高い光を見つめながら夏美が博士に尋ねて
言った。彼は秘書を抱き起すと、ソファーへと運びながら答える。

「ああ、さっき話してた間宮薫さんだよ。こちらの強力な助っ人だ。」
「間宮って…ちょっ…!?」

 その名前を聞いて涼子は慌てて懐の拳銃に手を伸ばし、震える手で光の方へ
と向けた…!

「あら、あなた刑事さんなのね。初めまして!ええと…その間宮薫です。今は
稲本光という名前で生活しているわ。よろしくね?」

 警戒して拳銃を向ける涼子の方へと、光は笑顔で歩いていく。
にわかに緊張して銃を構える涼子とは対照的に、にこやかな表情で近ずいて
いく光に、夏美は驚きの表情で見つめていた。

「ちょ…止まりなさい!それ以上近ずくと撃ちますよ…!あなたは警察の資料
では最重要危険人物ー」

 だが、光は片方の眉毛を上げながら近ずくと、銃を手にした涼子ごと抱きし
めながら耳元に囁く。

「あなた、お名前は?」
「あ…あの…涼子です、村山涼子…。」 

 すぐに光の言葉に答えた涼子は、先ほどの秘書と同じく急に力が抜けたよう
にふにゃふにゃとその場にへたり込んでしまった。

 なんというか…金髪の彼女は、この世の物とは思えないとても良い匂いがす
る…。


「羽田夏美さんでしょ?ヴァイオリニストの。」

 光という女性は夏美に近ずいていくと、握手しながら挨拶をした。
夏美は博士の言っていた”魔女”という話を、今でも半信半疑でいたのだが、
この金髪の彼女は自分の回りで起きつつある奇怪な事件を、どこまで知ってい
るのだろうか?元の旦那や、川村弁護士について自分の知らない何かを知って
いるのか?聞いてみたい事が夏美には山のようにあった。

 

 が、そんな夏美の気持ちを悟るかのように、金髪の女性は夏美やこの部屋に
集まった者たちに向かって言った。

 「…まあ、とりあえず何か御馳走して下さらないかしら?さっき飛行機で日本
に着いたばかりで、お腹ぺこぺこなの!腹が減っては戦は出来ぬ、でしょ?」

 光と言う金髪の女性は、ミニスカートの上から下腹をぺんぺんと叩きながら
おどけた表情を見せた。

「あ、コンビ二で買ってきたお弁当があるんだけど…こんなのじゃダメかしら
ね…?」
「ちょっ涼子さん…外国からはるばるやって来たばかりでコンビニ弁当はない
んじゃない?」

 夏美が眉をひそめながら光を見ると、彼女は背を屈めてコンビニの袋を覗き
込んでいる…。

「わおっ!海苔弁あるじゃない!これいただくわ。」

 何だか嬉しそうに一番安そうな海苔弁を手にすると、ソファーに座り弁当の
包みを破き、口で割り箸を割った。

「…ほんとに海苔弁で良いんですか…?」
「もちろん!私、海苔弁大好物なの。日本に帰ったらやっぱりこれよね!
ほんと日本に帰って来たっていう気分になるわ。海外にいたらこの、ごま昆布
なんて食えないじゃない?」

 などとまくしたてながら弁当を食べる光は、目の前に腕組みしながら座る博士
の方を向くと、前歯にくっついた海苔をお歯黒のように見せて笑う。

 博士は顔を少しだけ下げると、一瞬だけ失笑をもらした。

 笑いながら一人むしゃむしゃと海苔弁を食べる光を、皆ソファーに座り唖然
と見つめていた…。そのモデルのようなスタイルからは想像もつかないほど男
らしく、コンビニ弁当を食べる光を見ながら夏美は同じくソファーに座るぼうず
の博士に囁くように聞いた。

「…この人、ほんとに魔女なの?あんた嘘ついてない?」

 彼は無言で腕を組みながら、テーブルの弁当を見つめ夏美の質問には答え
なかった…。


「ところで光さん、今回日本に戻って来て真理さんには会えたの?」
「真理…?」

 隣に座る秘書は、何気に弁当をほうばる光に尋ねた。
彼女はそれを聞いて食べる手を止め、完全に全身の動きを止める。

「…真理、真理ね…あの子、今週は大学の旅行でイタリアに行ってるらしくて
…今回は会えないかも知れないって…おおおっ…真理!真理に会いたい…!」

 真理の話を切り出したとたん、光は突然大粒の涙をぼろぼろとこぼして泣き
だした。この場に居合わせた者はその急な彼女の変化に驚いたが、それよりも
驚いたのは大粒の涙をこぼし、泣きながらも海苔弁をほおばり続けていた事で
ある…。

「ほ、ほら光さん!他のお弁当も美味しそうだよ?ねっ?食べて食べて!」
「あの…それ私のエビチリ弁当…。」

 結局、光は涼子の弁当も含め三つとも弁当を平らげてしまった。満足そうに
ソファーに深々と座り爪楊枝でシーシーしている。目の回りの化粧が涙で流れ
黒い痕になっていた…。

「…博士、真理さんの話はタブーのようです。」
「…そうだな。気をつけよう…。」


 光が弁当を食べ終えると、さすがに夏美や涼子はしびれを切らし、やって来
た金髪の美女に質問をぶつけた。

「…さっき歩道で私に襲いかかって来たのは…あれが暗闇の魔女?」
「いえ、あれは違うわ。さっきのは…さしずめヒットマンね。たぶん警告のよ
うなものよ。あなた何か心当りある?」

 涼子はヒットマンという言葉に不気味なものを感じたが、狙われる心当たり
はあった。おそらく…

「…病院で暗闇の魔女かもしれない者の痕跡を見つけたの。警部が公園のトイ
レで襲われた時に、相手の髪の毛を数本掴んでいたんです。調べてもらったら、
ナイロン製のかつらの毛だっていう事が分かったの。」
「かつら…?つまり、相手は長い髪のかつらを被りながら殺しをやっているっ
て事か。そうなると犯人は、必ずしも女とは限らないって事になるな。変装して
いるかも知れないからね。」

 博士の言葉に涼子は頷きながらも、さらに疑問に思っていた事を光に聞いて
みる。

「そもそも、何故この連続殺人犯は、もしかしたら仲間である筈の者たちを殺
害しているのかしら?例のオカルト集団がこの事件に関与しているなら、暗闇
の魔女は連中の一味でしょう?味方を殺すなんて…どう考えても正気じゃない
わ…。」

 すると光は、先ほどまでの陽気な表情ではなく、真剣な表情で長い足を組み
変えると、右肘をソファーの肘置きへと身体を預けた…が、このソファーには
肘置きなど無くて、光は大股を開いて横の床にひっくり返った!

「ちょ…!光さん、四十のおばさんがパンチラしたらダメでしょうが…!」
「…まだ三十九よ…おばさんとか言わないの…。」

 顔を真っ赤にしながら光はソファーに戻ると、今度は両足をしっかりと揃え
て先ほどの涼子の疑問に答える。


「…その問いに答えるのは簡単な事よ。闇の呪術の世界では、生贄っていうの
はその恐怖の感情が捧げる邪神に必要なものなの。その中でも最も邪神が喜ぶ
ものが、”裏切られた時の感情”よ。」

「…邪神?一体、邪神って何なの…悪魔みたいなもの?そんなものがこの世界
に現実に存在するの?」

 腕組みをしながら二人の会話を黙って聞いている夏美の横で、不安な表情を
浮べる涼子が言うと、それにも光は明確に答える。

「厳密に言うなら、この世界には存在しないわね。魔術の世界では古代の昔か
ら世界中に呪術が存在しているの。アフリカにある原始的な呪いや、西インド
諸島に伝わるブードゥー。ケルトドルイドや、日本やアジアにある呪い的な
ものまで入れればいくらでもあるわ。そのほとんどが…この世ならざる者たち
と交信するための、いわば”通信手段”としての術ね?今どきの表現で言うと
…そう、”アクセス”ってやつよ。ドラッグなんかはその初歩的な道具ね。」

「…問題となるのは、どこにアクセスするかって事だろう。」

 博士が光の言葉に続けて言うと、彼女は小さく頷く。

「この宇宙にはね、途方もないほどたくさんの世界や別の宇宙が無数に重なり
合うように存在していて、普段それぞれが繋がり合う事は絶対に無いの。でも
、偶然それらが近くなり影響を及ぼす事が稀に起こるのよ。それらは別世界か
らの声となって、私たちの世界にも伝わった…神々であったり、邪神であった
り、または悪魔だったり…いわゆる闇の呪術としてね。これらはとても危険な
古代からの知識なのよ。」
 
「…なら、その暗闇の魔女っていうのを止めるか捕まえるかすれば問題は解決
する訳ね?そいつが闇の呪術だか何かの知識を使って事件を起こしてるんでし
ょう?違うの?」

 大人しく聞いていた秘書の早紀が、隣に座る光に言った。
ちらりと秘書が博士の方を見ると、彼は向かいのソファーに目をつむりながら
腕を組んで座っている、というか、眠っている…。普段の今頃は博士はとっくに
眠っている時間なのである。

「…暗闇の魔女を捕まえるのは無理ね。何故なら…彼女という存在は人間でも
ないし、実在する人物でもないからよ。」
「実在する人物じゃない…?なら、暗闇の魔女は一体…誰なの?何なの?」

 涼子の質問に光は僅かなあいだ沈黙していたが、暗い部屋の天井を見つめな
がら静かに答える。

「むしろ、彼女はそれら闇の知識で”こちら側に”呼び出された古代の悪霊よ…。」

 
 金髪の派手な服を着てやって来た”魔女”だという彼女が、誰にともなく答えて
言った。何だか部屋の気温が少しだけ下がったような気がした…。

 

 

 

 

             

 


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 男が去ったバーのカウンターで良美はため息を一つ吐くと、そろそろ引き上
げ時だと思った。どうやらここにはもう、あの小太りの弁護士が戻る事もなさ
そうだと感じたからである。

「…お勘定お願いします。」
「いや…今日はけっこうですよ。それに…」

 良美は白髪交じりのバーテンダーを見つめながら、小首をかしげて彼の次の
言葉を待つ。

「実は…今日でここの仕事は終わりでしてね…。」
「あら、どうしてですの?ここのバー、とても趣味がよろしいのに。テナント
のアンティークは最悪ですけど…。」

 肩肘をついて長いパイプを咥えていた良美は、カウンターのバーテンダー
方へと顔を近ずけながら小さな声で囁く。

「…ここのオーナーが二・三日の内にこのテナントを閉めるそうです。まあ、
ここに来る連中はろくでもない奴らばかりでしたから、私はほっとしているん
ですがね。」
「オーナーって…下柳財閥の会長さんでしょ?一体どうしてまた…」

 バーテンダーは良美がその名前を出した事に驚いたが、にやりと笑って小さ
な声で問いに答えて言った。

「…会長と私は昔からの友人でしてな、と言っても私の方はどうにも奴が好き
にはなれんでしたな。あいつはこの街を離れると言ってた。五十年以上に渡っ
て君臨してきたこの街をね。怖い物など何もないはずのあいつが…何か恐ろし
い事が起きようとしていると思いませんか?この街で…」
「恐ろしい事って…?」

 良美はカウンターに身を乗り出し、バーテンと顔をつき合わせて聞く。

「それはお嬢さんの方が、良く知っているんじゃないのかね?まあ、私は深く
詮索する気もないが…。」
「…どうしてそんな事、私に教えてくれたんです?もしかしたら…あなたたち
の敵になるかもしれないのよ…?」

 

      

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 バーテンの老人は、拭いていたグラスをカウンターに置くと、頬杖をついた
良美に近ずきながら言った。

「…十年前の私なら、君みたいなお嬢さんは口説き落としていたからさ。」
「今でも構いませんわ。」

 可愛らしい笑顔を老人に向ける良美を見つめながら、バーテンは空になっ
たグラスにまたバーボンを注ぎながら言った。

「…いや、私はもう色事は卒業しているんですよ。それよりも、夕食の一本の
ビールとプロ野球ペナントレースの結果の方が興味があるのですよ。」

 良美はそう言って笑う白髪まじりのバーテンに、少しだけ寂しそうな笑みを
見せるとグラスのバーボンを飲みほして言った。

「…そのささやかな幸せが続く事を祈ってますわ。」


 空のグラスをカウンターに置くと、良美は席を立ち足早にこのテナントを出
て行く。振り向かなかったが、背後のバーの明かりが消えるのが良美には感
じられた。


(続く…)