ザ・怪奇ブログ

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夜の観覧者 3話

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            3 失われた記憶


10月5日 水曜 朝…

 まだ薄暗い日が昇る前の時間に、菫はいつものように修道服に着替えると聖
クリステル教会の雑務を黙々とこなしていた。

 この教会が建てられてすでに五十年近くが経とうとしているが、カトリック
の教会としてはかなりりっぱな建物である。なんでもロマネスク様式の建築物
で、中世ヨーロッパのゴシック建築以前の様式としては最高の技術や労力が集
約されているらしい。

 この教会には彼女の他にも数名のシスターやら勤め人はいるが、一番早く出
てくるのはいつも菫である。祭壇に向かって膝をおり、しばらく祈りを捧げて
から花と祭壇の水を変え、そして教会のあちらこちらの窓を少しだけ開けると
、雨が落ちる薄曇りの空を見ながらため息をついた。

 もう一度祭壇に戻ってきた菫は、花瓶に生けたすみれの花を見つめてしばら
くその場に足を止めた。彼女の菫(すみれ)という名前は、十数年前に神父が
つけてくれたものだ。

 

 


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 十数年前のあの日も、今日のような雨の一日で、菫がここにやって来た時、 
彼女は記憶を無くしていた。自分が何処の誰なのか、歳はいくつなのか?まる
で覚えていなかったのである。

 土砂降りの雨の中、菫はこの教会の入り口に一人立っていたところを神父に
声をかけられた。持ち物も何一つ持たず、びしょ濡れの服にズボン姿で…。

 記憶の戻らない菫に、神父はここで修道女にならないかと相談すると、どこ
にも行くあての無い彼女は喜んで承知した。もともと真面目な性格だったのか
、修道女の生活にはすぐに馴染んでいき、今ではこの教会一のベテラン修道女
となっている。

 問題となったのは年齢と名前だったが、誠実でつつしみ深い性格から菫と名
ずけられた。年齢は、ここにやって来た時の感じでは二十歳くらいではないか
という事で現在は三十四歳。この十数年間何事も無く、この聖クリステル教会
のシスターとして過ごして来たのである。

 もうじき他の修道女たちもやって来る頃、菫はいつもよりも長く祭壇のマリ
ア像の前で祈りを捧げていた。


 朝の鐘が鳴り始めると、慌ただしく数人の修道女たちがやってきた。
皆この教会に住んでいる訳では無く、それぞれ別々に住まいがあるのである。
菫にしても、かつては教会に住み込みの生活だったが、今は近くに部屋を借り
ていた。修道女とはいえ、厳格なヨーロッパのような厳しさはなく、おまけに
年長の菫はとても優しいシスターである。

「おはよう御座います。」

 いつものように、慌ててやってくる若い修道女たちに穏やかな笑顔で挨拶す
ると、菫は神父の部屋に向かって歩いていく。長い廊下を歩きながら菫の耳に
は教会から不揃いな修道女たちの讃美歌が聞こえてきた。聖クリステル教会で
毎朝彼女らが歌う降誕の讃美歌である。


            ”生きる者全て 恐れて静まり
           世の思い捨てて 御恵みを思え
              神の巫女は 生まれたもう
                  人の姿にて…

             とこしえの光 暗き世を照らし
            闇に住む民の 上に輝けり
               黄泉の力 破るため
              巫女は来たりたもう… ” 


 十数年前のあの日から今日まで、菫の記憶は何一つ戻っていなかったが、こ
こでの生活は、失われている過去の記憶を必要としないくらい充実したもので
あった。

 普段とまるで変わらない、いつもの一日の始まり…。
だが、この日はこれまでとは少しだけ違っていたのである。

 

 

 

 

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 雨の街路地を傘をさしながらやってきた夏美は、教会の美しい鐘の音を聞い
て足を止めた。腕の時計を見ると七時を指している。鐘の音は、モラヴィア
の道路を挟んだ向かいに建つ大きな古い教会から聞こえていた。

 夏美は毎朝、教会の鐘の音で一日のスタートがきれるなんて素敵ね、と思い
ながらモラヴィア館の入口へと向かって歩いていく。昨日ウェイトレスの娘か
ら、管理人は七時にはここに来ていると聞いていたのである。

 重いガラス戸を押し開けると中から昨日とは違い、誰かの話声が聞こえて
くる。ロビーには制服らしきものを着た人が二人、クリーニングの最中であっ
た。

「あれ?お客さんかな?」

 ロビーに入ると螺旋階段の二階部分から声がして夏美は上を見上げる。
下を覗き込むように、若い男が声をかけてきた。

「…どうも、こんにちは。ここの人ですか?」
「ええ、二階の者ですけど…。」

 そう言いながら螺旋階段を降りてきた男は、何だか男にしては妙に声が弱々
しい。背は高い方だったが色白で健康的な感じはしなかった。

「あの…管理人さんってどちらにいらっしゃいます?」

 色白の男は話すかわりに夏美の後ろを指さした。

 振り向くと、ロビーの奥から一人の男がやってくる。
何とも派手な色の服を着込み、顔には厚化粧をほどこしていて、身体じゅうに
アクセサリーの類をつけていた。

「…あんたが新しい入居者だって?名前は?」
「あっ…羽田夏美といいます。」

 近くまでやって来た管理人は、夏美の顔をまじまじと覗き込み、頭の先から
靴の先まで眺めると、不思議な顔をしながら言った。

「…あんたみたいな人が、何でまたこんなとこに住もうなんて考えたのさ?
身なりからして…あんた収入は良い方なんじゃないの?」
「あの…凄く気にいったんです!建物も素晴らしいし、なんか静かな感じがし
て住みやすそうだなって…私あの、音楽をやってまして…。」

 夏美の言葉を聞いても管理人の男は片方の眉毛を上げて、不思議そうな表情
をしている。

「…ふうん、私にはこんな所には住もうなんて思わないけどね?まあいいわ、
今は古くて使えない部屋がほとんどだけど、一つすぐ入れる部屋があったはず
だわ。見てみるかい?」
「はい、お願いします。」

 管理人の男…は、ポケットから鍵の束を取り出し、上への螺旋階段を登り始
めると、夏美はその後を急いでついていった。ロビーも含め、螺旋階段全体に
も上等な絨毯がひかれてあり、昔は高級なホテルだった事が分かる。

 壁一面にも様々な模様の装飾が施されてあり、よく見ればここがとても芸術
的な建物だという事が夏美には理解出来た。ちょっと古くて汚れてるけど、こ
れだけ美しいアパートはそうそう日本には存在しないわね、と夏美は思った。
おまけに家賃も安そうである。

「あの、管理人さんはここにはお住まいではないんですか?」
「…住みゃしないよ、こんなとこ。ここは元々お婆さんの物だったんだけど…
もう随分前に死んじまってね。ま、改装工事とか維持にはほとんどお金をかけ
ていないから、ここの管理はそんなに悪くもないんだけどね…。」

 

 

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 四階まで上がってくると、管理人の男は薄暗い廊下を歩いてゆく。
廊下は一つも窓が無く、その代わりにあちこちに鏡が壁に掛けてあり、その鏡
は廊下全体に向かい合わせに配置されて、合わせ鏡になっていた。自分の姿が
、鏡の中にどこまでも無限と思えるほど遠くまで映りこんでいる。

 そう言えばロビーにもいくつか鏡が掛けられてあったが、それも合わせ鏡に
なっていたような気がする。

「どうしてこんなに鏡がたくさん掛けられてあるんです?」
「さあね、婆さんの代から建物はいじっていないから…ほら、この部屋よ。」

 そこは403号室と書かれてあり、隣の404号室が一番奥の部屋になって
いた。夏美が奥の部屋の方を見つめている間、管理人は部屋の鍵を開けドアを
開けていた。


「わあ、広くてすてきな部屋!」

 部屋は二つしかなかったが、元々ホテルの一室として使われていただけあっ
て上等な作りである。奥に寝室、手前には広々としたリビングになっていた。
リビングには大きな窓が一つあり、雨空ながら明かりが部屋に入りこんでいる。
これなら晴れの日は日差しがたっぷりと入るだろう。

 窓から見える景色は、道路を挟んで正面に見える大きな古い教会である。
ここならバイオリンを弾いても隣から苦情が来ることもなく、心おきなく音楽
に打ち込めそうだった。

「とても気に入ったわ。今すぐ契約したいんだけど、いいかしら?」

 夏美は管理人の男に声をかけると、男はまるで彼女の言葉など聞こえてはい
ないかのように、隣の404号室のある壁際を見つめていた。

「あの…今すぐ契約したいのですけど…?」
「えっ?ああ、もちろん、良いですとも。この書類にサインを…」

 リビングのテーブルに書類を置いてペンを夏美に渡すと、管理人の男は何だ
かそわそわとした様子で話し出した。

「まあ…ちょっと掃除をすれば今からでも住めますよ…綺麗なもんです。」
「ほんとに?じゃあ今から住んでも良いですか?私、自分で掃除しますよ。」

 管理人はサインを書いた書類を受け取り夏美にこの部屋の鍵を渡すと、そそ
くさと慌てながら部屋を出ていく。

 だが、ドアを閉めようとした時、何かを思い出したように夏美を振り返って
言った。

「…そうだ、五階と六階は誰も住んでいないし、荒れ放題で危険だから入らな
いようにお願いするわ。それと、何かあったらここへ連絡頂戴ね?」

 彼はどこかの電話番号が書かれた紙を夏美に手渡す。
その時、彼の手が震えているのが分かったが、その事について夏美は何も聞か
なかった。どこにでも怪奇話の類はあるものだし、彼女はそういうものについ
ては、それほど恐怖する方ではなかった。

 海外やらあちこち動き回ると、泊り先のホテルに怪談話などはつきもので、
実際おかしな現象にもいくつか出会ってもいたが、特別恐ろしい事も無く過ご
してきたのである。

「はい、分かりました。色々ありがとう。」

 にこやかな笑顔を管理人に向けると、彼は一瞬だけ表情を和らげたが、すぐ
に表情をこわばらせ部屋を出ていった。


 誰もいなくなった広い部屋に一人取り残された夏美は、一つだけ深いため息
を吐き出して、それから眉毛を上げて自分の腰に両手をあてる。

「さて、こっからまた新しいスタートよ。」 


 広いリビングで一人になった夏美は、腕を組んでしばらく部屋の中を見回し
てから、まず掃除用具を買いそろえなきゃねと、にんまりしながら思った。

 

 


 
 この数日、菫は奇妙な夢に悩まされていた。
自分が夜の街に繰り出していき、あちこちうろつき回っているのだ。それも、
修道服ではなく、派手な服を着込み厚い化粧も施している…。

 もちろん、普段の菫はそんなことは夢にも出てこないほど真面目でつつまし
い生活をしている。神を信じ、哀れみ深い彼女の人柄は、この教会でも誰から
も好かれている。

 何故かそんな菫が、まるで正反対の夢を毎日見るようになったのだ。

 悪夢のような夢が数日続き、この日とうとう神父にその事を告げた。
だが、悩み話しずらかった菫の相談に、神父はいつもと同じ穏やかな表情で答
えた。

「…シスター、そういった物事が夢の中に出てくるのはなにも珍しい事でも
醜い事でもない。人はみな誰でも様々なものを欲っしたり、手に入れたりする
事を考える。だが、普段の君はとても誠実でささやかな生活を送っているでは
ないかね?深く気に病む必要は…」

「はい…でも、それだけじゃないんです神父様。」

 神父の話を切るように、菫は言った。
彼は少しだけ驚いたような表情を浮べながら、彼女の言葉を待った。

「…この二日、人が…殺されている場面の夢を見るようになったのです。これ
は一体どう考えれば良いのでしょう?とても恐ろしい…これも自分が考えてい
る事なんでしょうか?」

「いや…そんな事はない。そんな事は…」

 菫は夢の出来事を思い出し、恐怖がよみがえってきて両手で顔を覆った。
神父は菫を椅子に座らせ落ち着くようにさとすと、水を一杯飲ませる。

「…神父様、もしかしたら…私の失われた過去の記憶の中にある出来事が蘇っ
てきたのでは…?私、もしかして人を…」
「馬鹿な、そんな事はあり得ない。恐らく疲れているのだろう…二・三日休養
を取るといい。今日は帰ってゆっくり休みたまえ。いいかね?」

 そう言って菫の肩を神父はぽんぽんと叩く。
彼女はぼろぼろと涙をこぼしながら頷き、神父の部屋を出ていったが、不安は
まるで消える事はなかった。

 もちろん神父にも不安はあった。
この数十年、いつかは彼女の記憶が戻る時がくる…これまで歳は離れているが
、自分の娘のように接してきた菫の記憶が戻ったとき、彼女はここを出て行く
かも知れないし、そうではないかも知れない。

 だが、神父は彼女の過去にどのような記憶があろうとも、守ってやろうと思
っていた。この十数年間、あの子はほんとに心の優しい子だったから。


 それが小雨が落ちる、10月5日水曜の朝の出来事だった。


(続く…)